三遊亭好楽に聞く!【前編】
芸歴56年のあたしが落語家になったワケ
『笑点』のピンクの着物でおなじみ、三遊亭好楽さんが著書『いまだから語りたい 昭和の落語家 楽屋話』(河出書房新社)を上梓した。
同じく『笑点』大喜利メンバーで兄弟子の林家木久扇さんが「こんな話、よく知ってるね」と驚いたそうで、好楽さんの落語界での顔の広さをうかがえる好著である。
そこで、2013年に好楽さんが建てた寄席「池之端しのぶ亭」を訪ね、落語家になったいきさつなどについて話を聞いてみよう。落語ファンならずとも心温まる必見のインタビューだ。
インタビューは前編と後編に分けて公開します。
- 三遊亭好楽
1946年、東京都東池袋生まれ。1966年、八代目林家正蔵(のちの彦六)に入門。林家九蔵を名乗る。1971年、二ツ目に昇進。1979年、『笑点』の大喜利メンバーに抜擢される。1981年、真打に昇進。1982年、林家正蔵の死にともない、五代目三遊亭円楽に入門。三遊亭好楽に名を改める。同年、『笑点』降板後、4年のブランクを経て復帰。現在に至る。長男は2009年に真打に昇進した三遊亭王楽。
客席と舞台、そして楽屋──。
3つが揃って初めて寄席と言えるんです
「池之端しのぶ亭」は、2013年に創業した好楽さんの私設寄席です。落語家が自ら寄席を作って席亭になるというのは大変珍しいことですね?
好楽
あたしが知ってる限りで言えば、(笑福亭)鶴瓶くらいかな。彼は、自分の師匠(六代目笑福亭松鶴)の自宅を改築して「帝塚山・無学」というホールにしました。「兄さんはあたしと考えてることが一緒。そっくりや」と言って、親しく交流してもらってます。
鶴瓶と言えば、タモリから聞いた江戸時代の花魁の実話をもとに作った新作落語「廓噺山名屋浦里(さとのうわさやまなやうらざと)」を聞いたことのある人も多いでしょう。
実は、そのネタおろしをしたのがここ、しのぶ亭でした。
朝、鶴瓶から電話があって、「兄さん、すんません。今夜、稽古したいんですけど使わせてください」と頼まれて。「稽古」といっても一人でぶつぶつやるんじゃなくて、お客を入れます。
しのぶ亭は、普段は満席になったとしても35人、コロナになってからは20人しか入れてませんが、このときは60人の超満員でした。「兄さんも聴いてください」というので、あたしもいちばん後ろの席で聞きましたけど、よくできた人情噺で感動しました。
そんな風に、落語家に研鑚の場を提供するというのが「しのぶ亭」の目的なんですね?
好楽
そうです。その昔、江戸八百八町の時代には、寄席が360軒もあったと言われてます。そのころ、落語は娯楽の中心だったんです。
それが時代を経るにつれて、映画館やダンスホールといった別の娯楽施設に変わっていった。「あそこは昔、寄席だったんだよ」という話を年寄りからよく聞いたもんです。
現在、都内には上野鈴本、新宿末廣亭、池袋演芸場、浅草演芸ホール、国立演芸場と5軒の寄席があって、落語協会と落語芸術協会の落語家が順繰りにそうした寄席に出演しています。あたしが所属する円楽一門会は、落語協会の分裂騒動をきっかけに協会を飛び出した団体なので、その輪には入ってませんけどね。
でも、しのぶ亭は協会の垣根なしにいつでも、誰にでも場を提供しています。
寄席を作るにあたって、あたしが何よりこだわったのは、楽屋を設けること。2020年に亡くなったカミさんは、資金調達から物件探しに至るまで一緒に頑張ってくれましたが、「楽屋を作るかどうか」では意見が食い違いました。だけど、「寄席は、客席と舞台、それから楽屋がセットになって初めて寄席と言えるんだ」と押し切りました。
寄席の楽屋というのは、落語という伝統芸能をベテランから若手へ継承していく「教室」として、ものすごくよくできたシステムなんです。
歌舞伎や演劇、テレビ番組では下っ端以外、大看板の演者には個室の楽屋が与えられます。ところが寄席の楽屋はどこも大部屋。つい最近入ってきた前座から芸歴何十年というベテランまで一緒くたに同じ部屋に入れられます。
前座は先輩のお茶入れから着替えの手伝い、高座返し(演者の入れ替わりに座布団を裏返しにして、出演者名の書いてある『めくり』をめくる作業のことです)、緞帳の上げ下げ、太鼓叩きなどの雑用をしながら、「おっ、この人の噺は今日は受けがいいな」とか、「この人はこんな珍しい噺をやるのか」なんていう先輩たちの雑談を聞きながら落語を学んでいくんです。ね? 最高の教育でしょ?
どこの寄席でも、同じシステムなんですか?
好楽
小さな違いはあっても、どこの寄席でも同じようなものです。例えば新宿末廣亭には1階と2階に楽屋があって、1階の楽屋の奥には火鉢が置いてありました。その前に座ることができるのは、三遊亭円生や八代目林家正蔵といった大幹部クラスの古参だけです。五代目柳家小さんも、そうした師匠たちに気兼ねしてか、落語協会の会長になってからも1階の楽屋を使わずに2階を使ってたくらい、序列がはっきりしてるんです。
今年、あたしは前座の修行時代から数えて芸歴56年になりますが、そうした師匠たちにかわいがられて、たくさんのことを勉強してきました。ただ、困ったことにその恩を返そうと思っても、ほとんどの師匠がお墓の中なんです。命日にお墓参りをしたところで、恩返しには足りません。そこで、しのぶ亭を作って、ここを後輩たちの勉強の場としよう、それが師匠たちへのいちばんの恩返しになるに違いない、そう考えたわけです。
志ん朝にも顔を覚えられた!
入門前の「落語小僧」時代の話
好楽さんは、落語家になる前から大の落語マニアだったそうですね。
好楽
はい。あたしたちの間で、そういう子どもを「落語小僧」と言います。そうなったのは、間違いなく母親の影響でしょう。
ウチは男5人、女3人の8人兄弟なんですが、6番目の4男のあたしが5歳のとき、警察官の警部をしていた親父が脳溢血で亡くなったんです。その日の朝、夜勤明けの親父が生け垣なんかを直していて、「気持ちが悪いから布団敷いとくれ」と横になったとき、家にいたのはなぜかあたしとおふくろだけでした。鼻から血がだらだらーっと出て、そのまま亡くなっちゃった。
以来、一家総出で新聞配達なんかのアルバイトに明け暮れる日々が始まったわけですけれど、品行方正で優等生の兄弟の中にあって、やんちゃなガキ大将だったあたしはおふくろに叱られてばかりいました。包丁や裁ちバサミなんかが平気で飛んできたし、モノサシでピシッと叩かれるなんて日常茶飯事。
そんな母親が日課にしていたのが、銭湯で一日の疲れを癒やしたあと、家に帰ってきてTBSラジオの『落語名人会』を聴くこと。「あの怖い、怖いおふくろを笑わせるようなおもしろいものがこの世にあるのか?」と興味を持って、一緒に聞くようになりました。
実家は東池袋でしたから、高校生になってからは歩いて行ける池袋演芸場に通い詰めました。当時、銭湯に行くと「ビラ下」といって、寄席の無料券を2枚配ってたんです。寄席は基本的に10日興行ですから、そのうち2日分はビラ下を使い、残りの8日を新聞配達で稼いだお金で行きました。
演者と客席の距離が近いのが当時もいまも池袋演芸場の特徴です。あたしは演者のツバキが飛んでくるくらいの目の前の席に陣どって、前座から中入り、トリまで、ひとことも聴きもらすまいと食い入るように聴いていました。きっと楽屋では、「あの高校生、また来てるよ」なんてウワサになってたと思います。
その証拠に落語家の修業を始めたころ、古今亭志ん朝師匠があいさつに来たあたしの顔をじーっと見てこう言ったんです。
「お前ェ、どっかで見た顔だな。あっ、池袋のいちばん前か!」って。こっちは顔を覚えられていてうれしかったんだけど、「バカヤロウ」と怒られました。
当時、志ん朝師匠はテレビやラジオで引っ張りだこの売り出しどきで、いちばん忙しかった時期です。「せめて寄席では一息つけると思ってたけど、お前が毎日顔を出すからネタを変えなきゃならなくて苦労したんだよ」というわけです。
そうやって学校帰りに寄席に行き、夜9時半にトリが終わるまで落語を聴いて、家に帰ると弟に頼んでテープに録音しておいてもらった『落語名人会』を聴きながら眠りにつくという、落語漬けの毎日でした。
「正蔵の弟子になる!」と決意した瞬間
となると、「落語家になる」というのは自然な選択だったんですね?
好楽
決心するまでには、多少の時間がかかりましたけどね。あたしが落語家になることについてはおふくろを含め、家族全員が大反対だったし、落語は大好きだけど、映画や芝居も大好きで、そっちの道に進む選択肢もありました。そこで高校を卒業して、やっぱり大学に行こうと1年ほど、明治大学に通っていた下の兄貴のアパートに居候していたこともあります。
ところが、受験勉強もそっちのけでアルバイトと寄席通いをしていたから、「勉強する気がないなら出ていけ!」と追い出されちゃった。それでいよいよ、落語家になるための第一歩を踏まざるを得なくなったんです。
落語家になろうと思ったとき、どの師匠に弟子入りするかは重要な選択です。弟子は師匠を鏡にして芸を磨いていきますから、その選択でおのずと将来の道が決まってしまうんです。
第一志望は当時、真打に昇進して4年目の五代目三遊亭円楽。『笑点』の前身である『金曜夜席』にも出演していて、おふくろも「声がいいのよねぇ」なんて言って惚れ込んでました。
そんな矢先、「円楽、初弟子をとる」という記事を新聞で見つけてガッカリ。飛ぶ鳥を落とす勢いの円楽の弟子になるなら、一番弟子じゃなければ意味がないじゃないですか。
それと時を同じくしてラジオで聴いたのが、八代目林家正蔵(のちの彦六)の「鰍沢(かじかざわ)」です。この噺、身延山に参詣した旅人が帰路、山中で吹雪に見舞われる場面があって、ラジオの音声を通じてなのに、まるで自分が吹雪のさなかにいるような気にさせる表現に鳥肌が立ったんです。落語には、言葉だけでこれだけの描写力があるのかと。
この人の弟子になる、直感でそう決めました。
弟子入りの決め手のひとこと
「ばあさん、のぶおが帰ってきたよ」
師匠に弟子入りして落語家になるには、どんな手続きを踏むのですか?
好楽
いまも昔も変わらないのは、師匠を訪ねて行って、面と向かって「弟子にしてください」とお願いすること。
名人ともなると、住んでる場所で呼ばれることがありました。三遊亭円生は新宿区の「柏木」、五代目柳家小さんは豊島区の「目白」、古今亭志ん朝は新宿区の「矢来町」です。あたしが目当てにした正蔵は、台東区の「稲荷町」でした。
ところが稲荷町に行っても、師匠の家がなかなか見つからないんです。その日は雨が降っていたからずぶ濡れになって探しました。町名変更で「稲荷町」が「東上野」に変わっているのに気づいて、やっとのことで師匠の家を探し当てたのが4時間後のこと。その日は場所だけ覚えてそのまま帰ってきました。
翌日は晴天で、服装を整えて再び正蔵のもとへ行きました。
「弟子にしてください」って切り出すと、こう言われました。
「いまねぇ、弟子が大勢いるんだよ。こいつらを前座から二ツ目、真打になるまで育てなきゃならない。あたしも来月で70歳になるしね」
それで、「はい、わかりました」と言って素直に帰ってきました。あきらめたわけじゃない、正座で足がしびれて我慢できなかったからです(笑)。
それで、2度目、3度目とそれを繰り返しました。
3度目ともなると、「ばあさん、また来たよ」と、正蔵の表情にも笑みが見えました。それを見て、師匠はきっと、あたしを弟子にしてくれるに違いないと思いました。
そう思うのにはもうひとつ、ポイントがありました。
「名前はなんて言うんだい?」と聞かれたんです。
「はい、家に入ると書いて家入です」と答えると、「下の名前は?」と重ねて聞かれて「信夫です」と答えました。
すると、師匠はニッと笑って、「ばあさん、のぶおが帰ってきたよ」と言ったんです。師匠には「信雄」という名前の息子さんがいたんですね。戦後すぐのころ、17歳で栄養失調と過労で亡くなったことをあとになって知りました。
それで、「今度は親御さんを連れてきなさい」ということになりました。
落語家は入門しても定収入があるわけではないから、食えません。だから、家族の了承が必要なんです。
おふくろは「やだよ。そんな怖い人のところへ行くのは」と渋りましたけど、それでも頼みこんで連れていきました。
その日、正蔵は母親に言いました。「大事な息子さんをこんな世界に入れちゃっていいんですか?」と。
すると母が言いました。
「泥棒になるよりいいと思います」と。
これには師匠も大笑いで「いいねぇ、ばあさん。おもしろいお母さんだねぇ」と言われて、あたしは親子で師匠に気に入られたんです。
破門23回! 最大の危機は
「フリージア・ジョニ赤事件」
八代目林家正蔵師匠から「林家九蔵」の名をもらって修行を始めてからの日々は、いかがでしたか?
好楽
師匠にはよく怒られていましたね。それこそ毎日のように。
師匠が弟子に対して、師弟の縁を切ることを「破門」といいますが、あたしは合計23回という前代未聞の記録を持っているんです。自分で数えたわけじゃなくて、兄弟子の林家あとむ、のちの八光亭春輔が「はい、10回目」、「九ちゃん、今度は15回目だよ」とご丁寧に数えていてくれたんです。
同じく兄弟子の春風亭柳朝が19回、立川談志が五代目柳家小さんから破門されたのが17回といいますから、破門23回という記録がいかにとんでもない記録か、わかるでしょ?
最初の破門は、出先に師匠のカバンを忘れてきたことからでした。でも、それ以外の破門のほとんどは酒にからんでのことでした。
好楽さんは、酒癖が悪いんですか?
好楽
いえいえ、酔った席でのしくじりじゃないんです。飲み過ぎが原因で大事なところで居眠りをしたり、師匠の留守宅で置いてあった酒を飲んじゃったりして「破門だ!」ってことになる。
いちばんひどかったのは、飲み代のツケを師匠の家に取りに来られたときでした。
当時、近所に開店したばかりの「フリージア」ってスナックがあって、師匠が地方公演で旅に出ていたんで前座仲間と飲みに行ったんです。
そしたら、カウンターに見たこともないような高級なウイスキーがずらり並んでいるのを見て「今日はオレが奢るから何でも頼んでいいぞ」って後先考えずに言っちゃったんです。前座は師匠の家に住み込みで下働きする仲間が多いんですが、あたしは池袋の実家から師匠の家に通いで、楽をしてたという負い目もあったんでしょう。
そのとき飲んだウイスキーの中にジョニー・ウォーカー・レッド、ジョニ赤があって、請求額が5万1000円。あたしが1日100円しか稼げないときの5万1000円ですから、払えるはずがありません。どうしよう、どうしようと悩んでいるうちにフリージアのマスターが師匠の家にツケを取りに来ちゃったんです。
それまでの破門は、翌日に顔を出せばケロリと忘れていることが多かったけど、ここで師匠に立て替えてもらおうもんなら、今度こそ正真正銘の破門になることは間違いありません。
そこで、隣のお米屋さんで電話を借りて、母親に「お金持ってきてくれよ」と泣きつきました。金額を聞いたおふくろ、「ギャオーッ」と怪鳥のような悲鳴を出しましたね。
それでも、しわくちゃの1000円札と500円札を束にして持ってきてくれたのは母親のありがたさです。おまけに師匠も、フリージアのマスターに「こんな子どもに高い酒をたくさん飲ませる馬鹿がどこにいますか」と諭してくれて、「じゃあ、1万円だけ負けさせていただきます」と、ツケ総額は4万1000円に減額されました。
後にも先にも、このときは人生最大のピンチでしたね。
酒はしくじりのもと。
でも、芸の肥やしにもなる
師匠から禁酒を命じられることはなかったんですか?
好楽
なかったですね。落語家は本来、前座の身分から大っぴらに酒を飲んじゃいけないという暗黙のルールはあるんですけどね。
前座時代、師匠から「お前は酒を飲むんだってね」と言われてドキッとしたことがありました。だけど、「飲み過ぎちゃダメだよ」と言われただけでした。あとで聞いた話ですが、師匠は若いころ、飲んで暴れたこともあったそうで、酒に関して弟子を強く戒めることができなかったのかもしれません。
兄弟子の春風亭柳朝も、あたしが酒で何度も失敗しても、「やめろ」とは言いませんでした。むしろ、「お前、飲んでもいいけど、気をつかえ」って言われましたね。
ただ飲んで酔っ払うだけじゃなくて、座をよく観察しろ、ということです。黙ってて寂しそうな人がいればお酌して「お話、聞かせてください」と言って話し相手になるとか、おもしろい話をして場をなごませるとか、酒の席で人付き合いの仕方を学ぶのも修行のひとつだというわけです。
実際、「あの人はからみ酒だからよくないよ」ってウワサの立つ師匠には人が寄りつかないものですけど、あたしはそういう人にもよくかわいがられました。「この間、ウチの師匠がこんなことを言ってましたよ。おかしいでしょ?」って、その人の懐に入るのがうまくなったんですね。
そうやって酒を飲みながら先輩たちの話を聞くのは楽しいものです。酒はしくじりのもとになることもあるけど、あたしにとっては芸を磨く肥やしになってくれた面もあるんですね。
兄弟子の林家木久扇に『いまだから語りたい 昭和の落語家 楽屋話』を読んでもらったときには「こんな話、よく知ってるね」と驚かれたけど、大部分では酒のおかげだと思ってますよ。
興味深くて、おもしろいお話をありがとうございます。後編のインタビューでは、好楽さんが『笑点』大喜利メンバーに抜擢された話、番組を1度クビになって再登場した話などについて、伺っていきたいと思います。
後編記事はこちら→ 三遊亭好楽インタビュー【後編】ウサギとカメだったら、カメのほうがいい