かっこよい人

愛しの「茜ちゃん」は日本古来の赤、Japanredの再生に邁進中

Japanred、日本茜とはどんな色だろうか。真っ赤な夕焼けのイメージを持つ人が多いかもしれない。万葉集には『あかね』という言葉を含む歌が何首もある。当時染められていた伝統色『緋色』は、太陽の日の色、炎の火の色であり、それらの赤い色をバックにして天皇を表すために日本では日本茜という植物の根を使って染められていた。現在、私たちが眺められる「あかね空」は、赤だけでなく雲の厚さで色を変え、様々表情を見せる。染める具合によって「日本茜」だけで様々な表情を見せる茜空を表現できるのだという。

定年を前にして自らサラリーマン生活に終止符を打った杉本一郎さんは、なにをするにしても体力作りからだと、ウォーキングや山登りを始めた。そこで、見つけたのである、日本茜を。滋賀の河川敷で見つけた日本茜が退職後の人生を大きく変えていく。日本古来の赤を復活させ、文化として広めるために邁進中することとなる。日本茜がどのようにして杉本さんの進む道を変えていったのだろうか。なぜ日本茜だったのか。ノンストップで挑戦し続けている杉本さんに伺った。

杉本一郎
1952年生まれ。大阪府出身。毛布の織屋に生まれる。京都工芸繊維大学 繊維学部繊維工学科を卒業後、(株)川島織物(現・(株)川島織物セルコン)に入社。2009年6月、一身上の都合により退社、同年11月に自生している日本茜を見つける。以来、栽培・研究・開発・販促などのあらゆる活動を全て1人で行う。2021年、大阪府忠岡町に4名の有志で一般社団法人日本アカネ再生機構を設立。日々、日本茜の文化を未来へ繋ぎ、拡げるために邁進中。
目次

子どものときからもの作りが好きだった

大阪府の南部にある忠岡町。泉州と呼ばれているこの地域は昔から織物の盛んで、現在もタオルや毛布などを製造をしているところが多い。大阪の毛布の織屋に生まれた杉本さんは、大学を卒業後、家業を継がずに京都の川島織物※1に就職した。

杉本
川島織物がどんな会社か知らずに入社したんです。とにかくもの作りがしたかったんです。1970年代はオイルショックの影響で若い連中は営業に配属されまして、もの作りの部署ではなく、東京のインテリア事業部に行きました。

※1 川島織物:現:株式会社川島織物セルコン。主に呉服商から室内装飾に始まり、今日ではインテリア商品や内装材などを製造する京都のファブリックメーカー。旧・川島織物の創業は古く、1843年(天保14年)にまでさかのぼる。

その後、自動車事業部に移動したが、子どもの頃からもの作り好きだった杉本さんは、自ら進んで手機を購入したり、染めをしたりしていたそうだ。ところがこれが、営業先で評判となる。

杉本
会社の染の部門の人に染料をもらってタピストリーを織って、取引先の日産の女の子にあげたんです。そしたら、ば~と評判になって織のことならあの人に聞けって言われるようになりました。

織り物をする杉本さん

30代、40代はひたすら仕事に打ち込み、家族はほったらかし。中国に独自に世界初の複合工場を立ち上げたこともある。

杉本
中国には50回ほど行きました。人の後を追っかけるのが嫌いで、新たな進め方を模索する性格で、次へ次へと異動させられて、もの作りのすべての部署を担当しました。

ひたすら突き進んできたサラリーマン生活であったが、常務執行役員となっていた杉本さんは、呉服事業のリストラをする立場となる。

杉本
社員を半分にするために、課長も部長もきった。社員の見る目も変わってきました。
社員は辞めさせるのに役員は辞めへんのかという空気になっていました。誰か手を引かんとあかんなと思い「私も辞めるわ」いうて辞めました。
57歳の時である。辞めたときは、60歳になるまでに何をやるか考えようと思っていたそうだが、ハタと困った。当時、滋賀県の守山市に住んでいたのだが、周囲には知った人がいなかった。

自生している日本茜を見つける!

先のことはまったくの白紙だった。とにかくまずは体力づくりだと、近江富士(三上山)に登ったり、ウォーキングに勤しんだ。実は、このとき、歩きながらずっと「日本茜はどこに咲いてるねん」と探していたという。日本茜は野洲川の河川敷にひっそりと咲いていた。このときはまだ、日本茜に自分がこれほど魅了され、今後の人生を大きく変えていくことになるとは思ってもいなかった。

日本茜

日本茜に関する記録は、万葉集などの書物にも数多く残されおり、日本茜で染めた鎧や服飾品なども国宝として保存されている。また、黒船来航時に日本総船印として制定された日本国を記す「日の丸」も日本茜で染められていたという。しかし、日本茜による染色は衰退し、幻の植物となっていた。どこかに咲いていてもそれが日本茜だと分かる人はほとんどいない。杉本さんはどうして日本茜を発見することができたのだろうか。

日本茜がどんな植物かすでにご存知だったんですか?

杉本
会社を辞める少し前、2006年頃に染めの担当者から聞いて知っていました。そのときからずっと、その姿を頭に焼き付けていました。日本茜のことは誰も知らん、みんな忘れている。ならば、自分で見つけたいと思っていました。数株を持ち帰って持ち帰った日本茜をマンションのベランダに植えました。

自生している日本茜を見つけ、ベランダに植えたときは、まさか、これほどのめり込むとは杉本さん自身も思っていなかった。

泉州へ帰ろう!庭に植えた100株の日本茜

滋賀が住みやすいと気に入っていた奥さんを説得し、故郷である泉州に戻ることにした。泉州の忠岡町にある実家は江戸中期に建てられた築250年の古民家だったため、建て替えが必要であった。費用もかかったそうだ。

杉本
やりたいことがやれるなら食えるだけのお金があればいいんです。大阪に戻って、最初は100株植えました。

日本茜は、収穫するまでに3年かかる。100株植えたとしても根を乾燥させ、できた染料はわずか100gだった。染色を一回すればはい、お終い!しかし、そんなことであきらめるわけがない。とにかく植えてみようからスタートした。

杉本
日本茜が育つまでの3年間かかるでしょ。私は人のやらないことをやるのが好きなんです。ずっと何かできないかと考えてました。ハーブを50種類植えたら人が集まるんじゃないかなんてやったりもしました。人のやらないことの中のひとつが日本茜だったんです。

日本茜はまさしく人のやらないことであった。日本茜の文化を作りたいという壮大な夢が芽生えていった。そのためにはもっと多く育てようと思い始める。
日本茜を育てるために農地を借りるにしても一般人では借りることができない。農家でなければ耕作放棄地であっても農地は借りられない。杉本さんは、大阪府の準農家制度※3を利用して岸和田市に約500㎡の耕作放棄地だった農地を借りた。農産物として日本茜を登録してもらうのは至難の業だったようだ。一般人は準農家にはなれない。一定の条件がいるからである。そのために、挿し芽の講師をしたりと奮闘した。

杉本
大阪府の「忠岡町」「岸和田市」、京都府「福知山市」この3自治体だけは「農産物」となっています。

日本茜が農産物として認められたのは日本初?かもしれない。日本茜は茎に棘があり、節から根を生やし、草や枝を引っかけながら伸びていく。平坦な場所には生息せず、大木の根の狭間で成長したりしながら辛抱強く、誰にも相手にされないままであったが生息し続けてきた。

※3 準農家制度
これまで農業者しか借りることができなかった小規模な農地を紹介してもらえる制度。2023年4月1日以降は、本制度を活用しなくても経営規模に関わらず、多様な経営体が農業に参入できるようになることから、準農家制度は終了。

日本茜の畑
日本茜の花

思いを持つことが大事 トライ&エラー 苦労はいとわない

今が一番楽しいと杉本さんは言う。2021年には4人で大阪府忠岡町に一般社団法人日本アカネ再生機構を設立した。日本茜の美しい色彩でこれから何が出来るのか、日本茜を普及させるにはどうすれば良いのか、常に問い続け活動を続けている。日本茜の可能性は無限にありそうだ。地域の特産物も生み出せる可能性を持っている。染色のトライ&エラーを繰り返すうちに、日本茜の染料は、綿、麻、絹、毛糸以外にも工夫をすれば皮も油もなんでも染めることができるのだそうだ。実験的に染めたプラスチックのスマホケースも見せてもらった。漢方薬にも使用されており、食べ物に色付けにも使用できる。杉本さんが「100%自然由来のハンドクリーム」といって見せてくれた。色はほんのりと赤みを帯びた黄色である。日本茜が入った蜜ろうで作ったそうだ。口紅や絵の具、クレヨンにもできる。

日本茜で染めたスマホケース

杉本
この前は、おでんの具を染めてみたい!と言って、持ち込まれて、染めました。どれもこれも染まるのですよ!さすがにビックリでした。

日本茜で赤く染まったおでん

なるほど。ピンク色のチクワや大根はなかなか楽しそうだ。常になにごとも鵜吞みにすることなく、失敗を恐れず、実証しながら進めている。栽培をする人を募り、染色を追究し、想いを共有できるものづくりの人達に声をかけ、商品開発へと繋いでいる。

染色データ
煮だした液のサンプル

杉本
固定観念を取り外すことが大事です。トライ&エラーしかない。そうでないと新しいことは生み出せない。日本茜に対する思いがあって、めちゃでっかいビジョンがある。幻を追っかけるドン・キホーテみたいなね。

日本茜で染めた絹糸
染めた生地を乾燥
茜色の空を表現したタピストリー

未来も夢もある日本茜

東京・青梅市にある武蔵御嶽神社が所蔵している国宝『赤糸威鎧(あかいとおどしよろい)』の修復にも関わった。日本三大鎧の一つで、ほぼ完存する最古の物である。鎧に使用されている絹糸を日本茜で染色し、約800年前の鮮やかな赤色を蘇らせた。絹糸はボロボロになっていたが、日本茜の色は1000年近く経ってもしっかり残っていた。このとき、杉本さんが目指したのは800年前の武士の大将が着用した赤糸威鎧の極濃赤色だった。


杉本
めちゃ濃い赤にしました。何度も染を繰り返しました。鎌倉時代の武士にすれば鎧兜は死装束でもあるわけです。「もっと濃い赤に染めろ!」といわれているような気がしました。

自生している日本茜を見つけ、わずか数株を採取してマンションのベランダで始まったスタートであったが、その栽培面積は数千㎡にまで広がった。草木染めではまずやらない染め糸に光を当てて数値に置き換える測定をしている。そのデータの綿密さは研究者そのものだ。そして、国宝の修復、再生に貢献するところまで辿り着いた。最初はかさや儀平 染織工房という名で始めた名称を日本茜の里に変えた。やりたいことは次から次へと出てきているようだ。

杉本
無名の私が「茜ちゃん」に出会ったことで14年でここまで来られました。なんでそれができたかというと、何でもええからやってみること、門戸を開放して知りえたことは全て伝えています。今年は日本中をまわって、来年は日本茜を広める集大成として欧州で広めたいと考えています。既に、南フランス、パリ、オランダ、英国、ドイツと可能性が見えて来ています。

日本茜と付き合い始めた今が一番楽しいと杉本さん。Japanredとして、日本から世界へ広がる可能性を秘めている。杉本さんのトライはまだまだ続く。

Japan Red project

取材・文=湯川真理子

※掲載の内容は、記事公開時点のものです。情報に誤りがあればご報告ください。
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