かっこよい人

関根勤に聞く!【後編】他を活かし、自を活かす。それが「嫌われない法則」の極意

インタビュー前編では、ラビット関根を名乗っていたデビュー当時、「カマキリ男」に代表されるクドい芸でお茶の間の嫌われ者になってしまったエピソード、ならびに小堺一機さん、萩本欽一さんとの出会いを通じて見事にアク抜きをしてもらったエピソードなどを語ってもらった。
後編では、27年半の長きに渡って続いた人気ラジオ番組『コサキン』シリーズや、自身の劇団「カンコンキンシアター」の誕生秘話などについても話を聞いてみよう。
また、2024年で芸能生活50周年をむかえ、ますます元気な関根さんの元気の秘訣についても大いに語ってもらおう。
人間関係で悩んでいる人、毎日明るく生きていきたい人、必読のインタビューだ!

関根勤(せきね・つとむ)
1953年8月21日、東京都港区生まれ。お笑いタレント、コメディアン、俳優、歌手、司会者。旧芸名はラビット関根。娘はタレントの関根麻里。1974年、TBS『ぎんざNOW!』の「しろうとコメディアン道場」で初代チャンピオンとなって芸能界デビュー。以来50年、数多くのバラエティ番組や舞台、ラジオなどで活躍。好感度の高い普段の姿とは別に、1989年から自ら主宰する劇団『カンコンキンシアター』ではナンセンスな「裏関根」の顔も見せている。
目次

クビ寸前だった不人気ラジオ
「コサキン」が突然ブレイクした理由

1982年『欽ちゃんのどこまでやるの!』(テレビ朝日系)の「クロ子とグレ子」役で小堺一機さんとコンビを組んだ関根さんですが、その前年には27年半の長きに渡ってリスナーに愛された人気ラジオ番組『コサキン』シリーズ(TBSラジオ)がスタートしています。どんなきっかけがあったんですか?

関根
この番組、成り立ちがちょっと複雑で、最初から「コサキン」の看板を掲げていたわけではないんです。

『夜はともだち 松宮一彦絶好調』というラジオ番組があって、パーソナリティーをつとめていたアナウンサーの松宮一彦くんがテレビの国民的歌謡番組『ザ・ベストテン』(TBS系)の追っかけマンに抜擢されて、空いた木曜日の穴を埋める、代打のパーソナリティーとして僕らが呼ばれたんです。

当然、リスナーは「第二の久米宏」と言われた松宮くんのファンが中心ですから、無名のコメディアンだった僕らふたりの人気が出るはずがない。

実際、リスナーから来るハガキの量は、ほかの曜日が週に200通くらい来ているのに比べて、僕らが担当する木曜日のハガキは、たったの2枚。それでも、「いや~、今週も2枚でした」ってグチりながら、2枚のハガキを5回に分けて読んだりして、その場をしのいでいたんです。

ある日、ハガキが1枚増えて、「3枚になった!」って喜んだんだけど、その日は毎週投稿してくれていた「大熊良太」くんという人が2通出してくれただけで、ハガキは実質、2枚のまま。あのときはガッカリしたなぁ。

新人タレントとしては、ノイローゼになってもおかしくない状況ですね。

関根
さすがに僕も、木曜日が近づいてくるとユーウツになっちゃってね。ある日、小堺くんに持ちかけて「メチャクチャなことやって、あっちからクビにしてもらおう」って提案したんです。

ホラ、新人の手前、自分たちから「辞めさせてください」なんて言える立場じゃないでしょ? ただ、番組のほうから辞めさせてくれれば「僕らの力が足りず、クビになっちゃいました」って、言い訳が立つじゃないですか。

後輩の小堺くんからしたら、だらしない先輩に見えたでしょうね。でも、幸いなことに小堺くんもツラい思いをしていたようで、僕の提案に同意してくれたんです。

それで、次の週からメチャクチャやったの。
小堺くんが話の途中で何の脈絡なしに「おじさん、ガムちょうだい」って言うと、僕も負けじと「オレは不死身だぁ~~」と叫び返す。
そう、まったく意味はないんです。ただ、ふたりでいつものようにふざけ合っているだけ。

僕は内心、ディレクターが「お前ら何やってんだ!」と怒鳴りこんでくると思ってビクビクしていたんだけど、不思議なことに、誰も止めに入ることはなかったんです。それで、もっとふざけなきゃいけないんだと勝手に解釈して、ふざけ合いはさらにエスカレートしていきました。

なぜ、ディレクターさんは、突然ふざけ出したふたりを止めようとしなかったのでしょう?

関根
さぁ、よくわかりません。当時、僕は『カックラキン大放送!!』(日本テレビ系)で「カマキリ男」を演じて、全国の視聴者を気持ち悪がらせていたころだったから、怖くて止めに入れなかったのかもね。

ところがそれをきっかけにして、ハガキが一枚、また一枚と増えていったんです。僕らのおふざけの上を行こうとするハチャメチャな内容のハガキが。
気がつけば27年半、リスナーを巻き込んでの小堺くんと僕のふざけ合いの日々が続いたわけです。

番組が終わっても、不定期でイベントを開けばいつも満員御礼。
おまけに今でもTBS Podcastに場所を移して『コサキン ポッドキャストDEワァオ!』として配信を続けているんだから、これほどリスナーに愛された番組って、珍しいんじゃないかなぁ。

さまざまなスターを生み出した
劇団「カンコンキンシアター」誕生秘話

1989年、35歳だった関根さんは自らが座長をつとめる劇団「カンコンキンシアター」を旗揚げします。こちらはどんなきっかけがあったのですか?

関根
きっかけは、ラジオでした。ニッポン放送の『関根勤のTOKYOベストヒット』という番組のパーソナリティーをつとめていたんですが、そこのディレクターのところにあるメーカーさんから若者向けのイベントを企画してくれないかという話がまわってきたんです。

イベントの内容は、すべておまかせ。好きなことを何でもやっていいっていうんです。魅力的な話でしょ?

そこで僕は、有名・無名を問わず、お笑い好きな人に自分の好きなコントを披露する場にしようと考えました。主要メンバーの僕とラッキィ池田、ルー大柴のほかにはオーディションで出演者を決めて、まだ日の目を見ていない若手にチャンスを与えられればと。

実は、ちょっとした誤算があって、本番に向けた稽古合宿の最中、声をかけてくれたメーカーさんが業績悪化か何かの理由でスポンサーを降りてしまったんです。
でも、それくらいのことで盛りさがるほど、僕らのやる気はヤワなものではありませんでした。漕ぎだした船だ、自腹でやっちゃおう、って少しの迷いもなしに突っ走りしました。

第一回目の公演の手応えは、いかがでしたか?

関根
楽しかったですねぇ。とっても。1回きりのお祭のつもりだったけど、「座長、来年もう1回だけ、やりませんか?」って、みんなから声があがるくらい。

ところが2回目の公演をやり終えても、「もう1回」という声が消えることはありませんでした。その結果、気がついたらそれが30年以上続いて今に至るというわけ。

座長である僕にとって何よりうれしいのは、「キャイ~ン」や「イワイガワ」、「ずん」など、当初は活躍の場がなくてくすぶっていた人たちが、この舞台をきっかけにスターになる糸口をつかんでくれたことです。

2023年の第34回公演には、「飯尾和樹がスターになりました」という副題がついている通り、最近では「ずん」の飯尾さんのブレイクっぷりが印象的ですね。

関根
飯尾くんは確か、5~6回目の公演からのメンバーなんですけど、あまりに地味すぎる存在で、途中であきらめそうになったくらい。

稽古が始まる前の台本には、セリフがいろいろと書かれていて、稽古で余計なところを削ぎ落としていく作業をするんだけど、たいていの場合、最初にカットされるのが飯尾くんのセリフなんですよ。
だから、本番になると彼のセリフは、ふたことみことくらいしか残ってなくて、地味さがますます際だっていくんです。「地味さが際だつ」って、おかしな言い方ですけど。

それが今や、さまざまなバラエティ番組で引っ張りだこの人気者になり、本業以外でも映画『沈黙のパレード』の演技でブルーリボン賞助演男優賞を受賞するほどの活躍っぷり。本当にうれしくなりますよね。

だから、2023年の公演のチラシには、彼の似顔絵を全面にフィーチャーしました。本番でもできるだけ、彼の出番を増やしてね。
40代までずっと潜伏し続けて、50代でやっとブレイクしたんだから、今こそ使わない手はないでしょ?

ちなみに、今回の僕の本『嫌われない法則』の帯の推薦文も彼が書いています。

2023年4月、コロナ禍を経て4年ぶりに開催された「カンコンキンシアター34 クドい!~飯尾和樹がスターになりました~」のチラシ。(イベントの詳細記事

劇団が僕に教えてくれた
「他を活かして自を活かす」方法

関根さんにとって、「カンコンキンシアター」の舞台に立つことには、どんな意味があるんですか?

関根
テレビに出るときと比較すると、カメラの前で何かを表現しているときは「放電」という感覚に近いような気がします。それに比べて、「カンコンキンシアター」の舞台に立つときは、「充電」という言葉がピッタリきます。

「自分の好きなお笑いはコレなんだ」ということを確認する場所であり、お客さんの反応を見ながら「まだコレで行けるんだ」という確信を得るために欠かせない場所。

もうひとつ、僕にとって大きな意味があったのは、劇団での活動を通じてチームワークの大切さに気づいたことです。

チームワークの大切さ、というと?

関根
僕が劇団を旗揚げした3~4年前、小堺くんが『小堺クンのおすましでSHOW』という舞台を始めたんです。

出演者が好き勝手に自分の好きなネタを詰め込むスタイルの僕の劇団に比べて、小堺くんの舞台はニューヨーク・ブロードウェイのミュージカルショーを参考にした、歌あり、ダンスありのオシャレなステージなんですね。そのなかで、笑いの要素も必要だからと最初のころは僕もゲストに呼ばれてコントやトークを披露していたんです。

ただ、同じ舞台でも『おすましでSHOW』の場合、僕の出番は限定的でしたから、自分が出ているところでいかにウケるか、ということしか考えていませんでした。

ところが、自分が座長をつとめる劇団の公演となると、そうはいきません。そもそもが「無名の若手のチャンスの場とする」という意図がありましたから、出演してくれるメンバーが舞台の上でいかに輝いてくれるかをつねに頭に入れて、稽古から本番まで、一緒にじっくりと見せ方を考えていきます。

その影響で、テレビのバラエティ番組に出るときも、同じように番組全体の出来映えのようなものを考えるようになっていました。

自分がウケることを考えるだけでなく、ほかの出演者やスタッフに配慮できるようになったということですか?

関根
そうですね。例えば、若手のタレントさんや芸人さんと一緒に番組に出演するとき、僕がメインMCの人と話し込んだりしてしまうと、若手の人たちが入りにくい空気を作ってしまいますよね。そこで、タイミングを見計らって、若手たちがいちばん入りやすいところで話をスッと振るんです。

すると、若手たちのおもしろさが伝わるだけでなく、番組自体がバランスよくおもしろくなるから、視聴者は「またこの番組を観よう」と思ってくれる。
自分が目立つこと以前に、そういうことを考えられるようになったのは、劇団の座長として、出演者のおもしろい面を引き出したいと思ってやってきたことがベースになっていると思います。

要するに「オレがオレが」という境地を脱して、「他を活かし、自を活かす」という手段を僕は劇団から学んだんですね。

関根さんはテレビのバラエティ番組の起ちあげから参加し、いずれも長寿番組になることが多くありますが、その理由は、劇団の座長経験から培われた、関根さんのプロデューサー的な視点が求められているからなのかもしれませんね?

関根
結局のところ、「おもしろいことを一途に追及していく努力」だけでなく、「みんなで一緒に気持ちよく仕事をする」ということも同じように重要なんですよ。
ひいてはそれが視聴者に伝わり、番組が長く続いていくことにつながるんです。

「関根勤芸能生活50周年記念公演 カンコンキンシアター35 クドい! ~烏骨鶏のジジィ参上~」は2024年4月26日(金)~5月6日(月・祝)、銀座 博品館劇場にて開催。チケット入手が困難な公演なのでなる早チェック!(イベント情報詳細

馴染めなかった『笑っていいとも!』を
長く続けてこれたのは娘・麻里のおかげ

1984年には、愛娘の麻里さんが生まれていますが、このことも関根さんにとって大きな出来事だったでしょうね?

関根
もちろんです。ある意味では麻里も、僕を成長させてくれた恩人のひとりと言えるでしょう。

というのも、麻里が生まれて1年後の1985年、僕はタモリさんが司会をつとめる『笑っていいとも!』(フジテレビ系)のレギュラーに起用されたんですけど、番組の雰囲気に馴染めずに苦しんでいたんです。

番組の収録が行われるスタジオアルタのお客さんは、9割以上が若い女性で、子どものころから男しか笑わせてこなかった僕には何をしてよいのかわからず、いつもガチガチに緊張していました。コサキンラジオや、カンコンキンシアターで身につけた技術は、まるで歯が立たないんです。

そんな悪戦苦闘が8年も続いて、僕は40歳になっていました。ある日、『いいとも!』の客席を見たとき、当時9歳だった麻里の顔がふと、頭に浮かんだんです。

インターナショナルスクールに通っていた麻里は、よく家に友だちを招いたりしていたんだけど、外国人の友だちともなると大人びた印象があって、驚かされた覚えがありました。
そのときのことが思い出されると、僕の客席の女性たちを見る目がガラリと変わったんです。

「なんだ、彼女たちは麻里の友だちの数年後の姿じゃないか。だったら、家で彼女たちと接するようにすればいい。緊張する必要なんて、全然ないじゃないか」
そう気づくことで、自然に自分を出せるようになったんです。まるで、憑きものがストーンと落ちたような、劇的な変化でした。

もし、この気づきがなければ、『いいとも!』のレギュラーを29年間も続けることはできなかったでしょう。
そういう意味で僕は、麻里に本当に感謝しなければいけないと思っています。

父親、関根勤が娘の麻里に伝えたかった大事なこと

『関根勤の嫌われない法則』の娘さんの麻里さんによる「あとがき」には、「カマキリ男=父親」という存在を彼女がどうとらえていたかが書かれています。以下、その部分を引用します。
「幼い頃は毎日全力で遊んでくれる『楽しいお父さん』にすぎず、友だちたちにも大人気でした。全力で遊んでくれる大人って、なかなかいませんからね」
関根さんご自身は、普段、どんな気持ちで娘さんと接していたのですか?

関根
麻里が生まれてくることがわかったとき、子育てのことは何も知らなかったから、幼児教育や子育てに関する本をたくさん読んだんです。
そのなかで「3歳頃までに人格や性格は形成され、100歳までそれは変わらない」という言葉に強い印象を持ちました。

よし、ならば「人生は楽しい」、「生きてるって幸せ」ということを麻里には知ってもらおう。「生まれてきてくれてありがとう」という僕の思いが伝わるように努力しよう、そう決めたんです。

幼い頃は、言葉では通じないから、行動でそのことを示さねばなりません。
といっても、大したことをやるわけではありません。そばで見ている妻があきれるくらい、子どものレベルに合わせたバカ遊びを全力でするだけ。

例えば、お風呂に入る前の「ケツケツダンス」。脱衣所でズボンを脱いだとき、お尻の位置がちょうど麻里の目線の高さにあったので思いついたダンスです。
僕が拍子をつけてお尻をフリフリさせると、麻里がパーカッションのように僕のお尻を叩くんです。
「早くお風呂に入んなさい!」と妻に怒られるまで、毎日やってました。

夜の寝かしつけのときは、「乳首当てゲーム」。一緒に寝床に横になると、麻里が僕の鼻をスイッチのようにしてひねるんです。すると、僕はロボットのようなしゃべり方で「ミギノ、チグビヲ、サガセ」といって、乳首の位置を当てさせるんです。はずれたら「ブー」、当たったら「ピンポ~ン」と言ってケラケラ笑っていました。

麻里さんは、そうしたお父さんとの笑いに満ちた日々を評して「父が私の中に『幸せ貯金』を積み立ててきてくれた」と書いています。

関根
とにかく僕としては、一瞬たりとも手を抜かずに頑張りました。

仕事から帰ってきて自宅の玄関口に来ると、「よし、これからもうひと頑張りだ」と自分に言い聞かせて気合いを入れ直すんです。そのことがしっかりと伝わったと思うと、僕もうれしいです。

妻への思いはいつも「一方通行」。
いつか「通行止め」にされるのかも……

関根さんは自身が「嫌われない男」になった理由として、本では共感力や想像力を挙げられていますが、55歳のときには「感謝」の気持ちの大切さに気づいたことを感動的に語られています。あらためてそのエピソードを紹介してもらえますか?

関根
55歳というと、人生の折返し地点というか、自分の死が近づいていることを無意識に感じるものなのかもしれません。

ある朝、いつものように食卓に僕の大好きなチーズパンと紅茶が用意されていることにあらためて気づいたんです。そして、こんなことを思いました。

このチーズパンは、妻が買い物でパン屋に立ち寄ったとき、僕のことを思い出して買ってくれたんだろう。パンがつぶれないよう、ちょうどいい握力でトングでパンを挟んで、レジでお会計をして、いちばんおいしい状態で家に運んできてくれたんだ。
ああ、なんてありがたいことなんだ! 僕に対する好意のカタマリじゃないか。今まで当たり前のことと思って意識してなかった自分が恥ずかしい。今すぐ感謝の気持ちを伝えなきゃ!

ところが、そう思ったときは、マネージャーが運転する車で仕事場に向かっている最中でした。時すでに遅し!
いいや、まだ大丈夫だ。チャンスはある。と思い直して、僕はすぐに妻の携帯電話に電話をかけました。
「朝、いつも僕の大好きなチーズパンを用意してくれているよね。ありがとう」
ところが、そう妻に伝えたら、「えっ? あなた死んじゃうの?」って返事がかえってきました。

ちょうどそのころ、人間ドックの結果が出る時期で、妻は悪い結果が出たんじゃないかと勘違いしたんですね。そうじゃない、ただ感謝の気持ちを伝えたかったんだと説明して、事なきを得ました。

確かに、さっきまで朝食を食べていた旦那さんが、急に電話をしてきたら、誰だって重大な告白だと勘違いしてしまうかもしれませんね。

関根
妻への思いが強すぎるせいでしょうか、ふたりの間のコミュニケーションは、こんなふうにいつも僕からの一方通行なんです。

あれは、麻里が4歳のときでした。いつものように「桃太郎」の昔話をアドリヴいっぱいで麻里に披露したあと、疲れていたので一緒に寝てしまったんです。
1時間くらいして目が覚めて、麻里の寝顔をあらためて見つめて、こんな感慨にひたっていました。
「この子もいつか結婚して、子どもを産んで、僕をお祖父さんにしてくれるのかな」と。そのとき、ふとこんな考えが浮かんできたんです。

妻も幼いとき、同じようなシチュエーションでお父さんに寝顔を見られたことがあったに違いない。
そういえば結婚式のとき、妻のお父さんは僕の手を強く握って「この後はよろしくね」って言ったじゃないか。そうか、あのとき妻のお父さんは、僕にバトンタッチをしたつもりだったんだ。きっとそうだ。そうに違いない!

そう思うと、いてもたってもいられなくなって、寝室に行くと、妻はすでに就寝中。仕方なく、思いを伝えられないもどかしさと闘いながら彼女の寝顔をじっと見ていたんです。すると、妻は忍者の「くノ一」のように勘が鋭い人でね、僕の視線に気づいて飛び起きると「あんた、何してるのよ、おっかないわね!」と叱責されてしまったんです。

このときもまた、僕が「今日から僕が、キミの第二のお父さんだからね」なんて、わかりにくい説明をしたもんだから、「わかったわ」と妻に納得してもらうまで、長々と説明しなければなりませんでした。

こんなことを繰り返していると、一方通行どころか、いつか通行止めにされちゃうんじゃないかと心配することがあるんですが、やめられないんですよねぇ。

関根さんの奥さんに対する愛情は、それほど強いものなのですね?

関根
妻と出会ったとき、僕は21歳、彼女は19歳でした。

妻と出会う前の僕は、本当に女の子にモテなくてね。あまりにモテないもんだから、自己防衛のために2年間ほど、「オレは女嫌いなんだ」という、いつわりの仮面をかぶっていたくらい。

その仮面を剥がしてくれた妻こそ、僕の人生で出会った、最初の大恩人と言えるでしょう。
芸の上での大恩人が小堺一機くんと萩本欽一さんなら、孫の顔を見せてくれた麻里とともに、妻は僕の人生の大恩人なんです。
こうした人たちへの感謝の気持ちは、一生忘れてはいけないと肝に銘じています。人に感謝の気持ちを持つって、本当に大事なことですね。

若さの秘訣は、未来に対して
つねに夢や希望を持つこと

ところで、こうしてお会いして話をうかがっていると、関根さんが70歳だということを忘れそうなくらい、元気でハツラツとしている様子に驚かされます。関根さんの若さの秘訣は、何でしょう?

関根
特別なことは、何もしてないつもりなんですけどね。ただ、週に1度は趣味のゴルフをプレイしています。

あと、54歳のときに犬を飼い始めたんですが、犬というのはどんなトレーナーもかなわないほど、厳しいトレーナーですよ。雨の日も風の日も、それから雪の日でさえも、時間がくれば必ず散歩のおねだりをしてきます。
「今日はちょっと調子が悪くて、外に出たくないな」と思う日は、誰だってあるじゃないですか。そんなとき、人間のトレーナーならこちらに気を遣って、「じゃあ、今日はお休みにしましょう」って言ってくれるんだけど、犬は僕のコンディションなどお構いなしです。

お酒もタバコも嗜(たしな)まないのも、秘訣のひとつでしょうか。

関根
さぁ、よくわからないですね。

ただ、おかげさまで数年前、血液検査をしたところ、肝臓の数値は「16歳並み」というお医者さんのお墨付きをいただきました。ゴルフや犬の散歩で体を動かしているせいか、骨密度は50代並み、特に首のところの椎間板は27歳並みなんだそうです。

見た目だけではなく、体の中身も若々しいんですね?

関根
ただ、僕自身の実感としては、自分がしっかりと老いてるんだな感じることも多いです。老眼や頻尿にはだいぶ前から悩まされてますし、62歳でテレビの情報番組に出演したときに受けた心臓の検査で「冠動脈狭窄」と診断されて、ステント手術を受けました。

それから僕は、『千鳥のクセスゴ!』(フジテレビ系)という番組で娘の麻里と何度か共演しているんですが、あるとき、この番組でアメリカンダンスを全力で踊るネタを披露したことがあるんです。

リハーサルでも本番さながら、全力でダンスを踊って、そのままのテンションで本番を踊りきったんですが、その後、「では、カメラの別カットでもう一回、踊っていただきます」と言われて三度目に踊ったときは、途中でぶっ倒れてしまいました。車椅子で楽屋まで連れていってもらい、1時間の休憩をいただかないと再度の撮影に臨めませんでした。

このときは、さすがに「自分も老いているんだな」ということを実感せざるを得ませんでした。

でも、年をとること、老いていくことは自然の摂理なので、肩肘張ってあらがおうとはしていません。自らの老いと、上手に付き合っていくことがこれからの70代の課題なのかなと思っています。

70代という年齢は関根さんにとって、未知の領域だと思いますが、何か目標にしていることはありますか?

関根
僕はハリウッドのクエンティン・タランティーノ監督のファンなんですけど、聞くところによると、今年で61歳になった彼は「10作目の長編作品を撮ったら引退する」と発言しているそうじゃないですか。

10作目といったら、2019年に公開された『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』の次回作になります。ならば、その作品にちょっとしたエキストラ的な役でもいいから出てみたい。

だけどその夢は、決して「絵に描いたモチ」ではないんです。
何を隠そう僕は過去には、大尊敬している英国のコメディグループ「モンティ・パイソン」のテリー・ジョーンズさんが監督した『エリック・ザ・バイキング』に出演したこともあるし、ロイド・カウフマン監督のホラーコメディの伝説的傑作『悪魔の毒々モンスター』シリーズでも2作に出演しています。

なにしろ、タランティーノさんとはお互い「千葉真一さんの熱狂的なファン」という共通の接点がありますからね。千葉さんの息子さんで『ワンピース』のハリウッド実写版で世界的スターの仲間入りを果たした新田真剣佑とのつながりを生かして、どうにか実現できないかなぁと思っています。

強いて言えば、そんなふうにつねに未来に夢や希望を持っていることが、僕の元気の秘訣なのかもしれませんね。

とても楽しいお話、どうもありがとうございます!

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タモリさん、明石家さんまさん、萩本欽一さんなど大物芸人たちから学んだこと。
そして一人娘であるタレント・関根麻里さんを育て上げた個性的な子育て論、関根勤さんを「ドゥドゥ」と呼ぶ孫たちとの微笑ましい関係……。
麻里さんのコメントも交えながら、関根勤さんの50年の芸人人生を楽しく紐解いていきます。
人間関係で悩んでいる人、毎日明るく生きていきたい人、必読です。

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取材・文=内藤孝宏(ボブ内藤)
撮影=八木虎造

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