「そろばんで世界を目指す」そろばん界の重鎮にして異端児“小野のエジソン”こと宮永英孝の挑戦
「そろばん」が日本人の暮らしから姿を消して久しい。需要が減少した理由は、電子計算機の普及、消費税の導入により試算がしにくくなった、少子化による珠算教室の減少、教育カリキュラムの変化など、さまざまだ。
そろばんの生産量日本一を誇る兵庫県小野市。この街で作られるそろばんは「播州そろばん」と名づけられ経済産業大臣指定の伝統的工芸品に認定されている。しかし、そんな首位に輝く街ですら生産量は最盛期の10分の1にも満たないのだそうだ。
そのような斜陽化が進むそろばん業界で、知育玩具や認知症予防・リハビリ・脳トレなどあらゆる方向性を模索し、生き残りをはかるのがそろばんメーカー「ダイイチ」会長の宮永英孝さん、73歳。人呼んで「小野のエジソン」。生まれも育ちも小野市、そろばん従事歴51年という巨頭は、遂にそろばんで海外へ挑む。70代で世界を相手取る宮永さんに、お話を伺った。
- 宮永英孝(みやなが ひでたか)
1951年生まれ。兵庫県小野市在住。そろばんメーカー株式会社ダイイチ会長。播州算盤工芸品協同組合理事長。2023年に黄綬褒章を受章。そろばんの産地である兵庫県小野市で生まれ育ち、そろばんの素材や技術を使った「木製数字記念時計」や「合格(5か9)お守りそろばん」など画期的な商品を続々と開発したことから「小野のエジソン」と異名をとるようになった。地元の若手デザイナーとともにそろばんの製作体験ができる「そろばんビレッジ」を開設するなど、日々そろばんの普及に努めている。
そろばん日本一の産地に忍び寄る斜陽化の影
宮永さんが生まれ育った兵庫県の小野市は、昭和35年には年間360万丁も生産される一大産地だったそうですね。景気がよかった頃の街の雰囲気はどんな様子でしたか。
宮永英孝(以下、宮永)
当時はそろばん製造の工場が小野市内におよそ800軒ありました。小野市で作られる「播州そろばん」は4分業制でね。木材をそろばん玉のかたちに削る「玉削り」、削った玉に色をつけて、ひご竹(桁/けたと呼ぶ)を通すための穴を空ける「玉仕上げ」、玉を通すひご竹を作る「桁作り」、パーツを合体させる「組み立て」という4つの工程を経て、そろばんは完成するんです。
そして集落ごとに「玉を削るだけ」「組み立てるだけ」というふうに分かれており、生産効率をあげていました。分業化することで部位の製造技術が特化し、品質もあがりますしね。
私の母は玉を削る集落から嫁いできました。両家ともに代々そろばん製造を家業にしていたんです。うちの近所だけでも桁作り工場は15軒ほどありましたから、どこへ行ってもそろばん職人ばかり。小野市全体が一つのそろばん工場と呼んで大げさではなかった。
当社は組み立てをやっていました。ですから、家には完成品のそろばんがたくさんあったんです。生まれた時からそろばんに囲まれて暮らしていましたね。とはいえ私自身は、そろばん塾は1年でやめました。小学校3年生のときに塾へ通っていましたが、そろばんで計算するのが苦手でね(苦笑)。4級で終わりました。
そもそも、なぜ小野市はそろばんの生産が盛んになったのですか。
宮永
安土桃山時代、豊臣秀吉が現在の兵庫県三木市にあった三木城を攻めました。「三木合戦」と呼ばれる闘いです。戦災を逃れるために住民の一部が近江方面(現在の滋賀県)へと移住し、地元の産業だった大津そろばんの技法を習得した。そうして合戦終了後に三木へ戻って、そろばんの製造を始めたのがきっかけだと言われています。
そやから、そろばんは当初はお隣の三木周辺で製造されていたんです。ところが三木は秀吉の復興策で大工道具や農機具などに使う鉄製品が産業のメインとなり、そろばん製造は小野へと移り変わっていったと伝えられています
播州そろばんには400年以上もの長い歴史と伝統があるのですか。そんな小野市には、現在そろばん職人は何人いるのでしょうか。
宮永
当社が4人です。あと、他社ですと玉削りが2人、玉仕上げが1人、桁づくりが2人、組み立ては4人。合わせて13人です。工場は5軒しかありません。最盛期は年間360万丁を製造していましたが、現在は小野市全体で10万丁くらいですね。一時期は7万丁にまで落ちました。
一時期は800軒もそろばん工場があったのに……ずいぶん減りましたね。
宮永
ごそっ! と減りましたね。職人の高齢化が進み、おじいさんが多い。跡継ぎがいないし、「先がないから」と、あえて跡を継がせない親御さんもいます。
現在、若い者が組み立てをやっているのは当社だけですから、もしも廃業したら、すなわち播州そろばんの終わりを意味します。そやからうちの会社、希少価値がありますよ。責任重大でもあります。
御社の職人さんはお若いのですね。
宮永
うちは若いほうです。4代目の社長が41歳。次男坊が工場長をしていて36歳。職人は18歳、22歳、23歳、26歳です。ベテランの伝統工芸士の指導を受けながら学んでいます。
職人が若いのは、専門学校や定時制高校に働きかけているからです。若い人に継いでもらわないと、このままでは、小野のそろばん産業がなくなってしまう。播州そろばんの歴史が途絶えてしまいますからね。だからこそ、若者たちがやりがいを感じられるような仕事にしないといけないと思っています。
小野市のそろばん産業が斜陽化するなかで御社が健在なのは、職人の若返りをはかっているからなのですね。
宮永
理由はもうひとつあります。そろばんを小型化し、外注する職人の単価をあげたんです。これまで習慣でつくっていた23ケタのそろばんなんて実際は必要ない。15ケタあれば充分や。最大でも21ケタでいい。「職人がそろばんで食べていけるようにする」、それがそろばん産業を滅びさせない重要な点やと思います。
家業を継ぐきっかけは「詐欺に遭ってしまったから」
宮永さんはそろばんメーカー「ダイイチ」(承継当時は旧名の宮永実治商店)の4代目だそうですが、学生時代、家業を継ぐ気持ちはありましたか。
宮永
ありませんでした。子どもの頃から野球選手になりたかったんです。ただ、中学校の野球部でヒジを壊しましてね。プロ野球への道は断念しました。もしも私の身長があと10センチ高くて、ヒジを壊してなかったら、きっと球界を目指しています。そろばん業界にいないでしょう。
野球は現在も好きで続けています。そろばん歴は51年ですが、野球歴はもっと長いんですよ。
そろばんでなかったら球界へ。まさに「玉」とともにある人生ですね。家業を継ぐ気がなかった宮永さんが、なぜ4代目になったのですか。
宮永
詐欺に遭ったからです。
さ、詐欺に!?
宮永
東京の大学に通っていた頃、学生起業をやっていまして、卒業を控えた時期に私宛に「プラスチック製の13ケタのそろばんを1万丁ほしい」という商談が入たんです。実家に頼んでそろばんをつくってもらって納品したものの、出荷した翌日からその会社と連絡が取れなくなった。もちろん代金は支払われず、取り込み詐欺だと判明したんです。
東京の会社に就職するつもりでいましたが、そんなふうに父(3代目)に迷惑をかけてしまったので、責任を感じて家業に入ることにしました。昭和49年、オイルショックの頃のことです。
詐欺に遭ったそろばんは、その後どうなったのですか。
宮永
商品の行く先を探しました。幸い5千丁ほどは名古屋で取り返す事ができたのですが、残りの5千丁は大阪の卸問屋に送られおり、手遅れでした。「こっちはすでに業者に支払いは済ませてるんやから、お前には返せん」と言われ、取り戻せなかったんです。
ただ、その問屋も私に対して気の毒に思ってくれたのか、「なにか、おもろいもんをつくって持ってきて。良い商品やったらうちで扱うから」と提案してくれましてね。それで自分がよくやっていた麻雀からヒントを得て、点数を書けるメモパッド付きのそろばん『点取りーパッド』を開発して持っていった。すると「これ、ええやないか」と気に入ってもらえましてね。大阪のその問屋で販売してくれることになったんです。
確かにメモパッドとそろばんが合体していると、計算するのに便利ですね。
宮永
昭和40年~50年代当時はまだ電卓が一般には普及していませんでしたからね。その頃は雀荘が流行っていたこともあり、点取りーパッドは景品に使えるとあって、よう売れました。5万個も売れて、損害分も取り戻すことができたんです。
点取りーパッドをはじめ、新しい商品を考えるのが好きでした。珠算教室に提供できるよう、表彰用にそろばんの玉のかたちをした楯やトロフィー、時計の開発もしました。売り上げもどんどん伸びていきましたね。
売り上げがアップして、3代目だったお父様も喜んだのではないでしょうか。
宮永
いやあ、ぜんぜんです。当時のそろばん業界は、言わば卸問屋の下請けでね。立場が弱かったんです。商品には問題がないのに「このそろばん、余ったから、もういらん」と返品されても文句も言えなかった。そんな商売、おもろくもなんともないでしょう。
それで「なんで返品やねん」と腹が立ってね、親父が開拓した得意先を勝手に切ったことがあったんです。それを知った親父が「お得意様を泥足で蹴って帰ってきやがって!」と激怒しましてね。その一件以来、「こいつはワシの言うことをきかん」「なにをしでかすかわからん」と仲違いしていました。
親父は昔気質で、つねに慎重でした。でも、私は正反対の性格で、イケイケどんどん。決断が早いし、自信もあった。「突拍子もないことばかりしやがって」と怒られていたけれど、新たな商品を運用していかなければ、下請けのままで終わってしまうやないですか。それでは、おもろない。
そろばんの普及のために手作りで建てた「そろばんビレッジ」
インタビューさせていただいているこの場所「そろばんビレッジ」はとても素敵です。神戸電鉄「小野」駅から徒歩10分という距離もよい。日頃はそろばんの製作体験ができるワークショップを開催しているそうですね。
宮永
そうなんです。ここではマイそろばんが作れます。お子さんをはじめ、さまざまな方がそろばんに触れるきっかけになってほしいと考えて、ここを開設しました。そやから関心を持ってもらえるように玉もピンク色などカラフルにしているんです。
そろばんビレッジはいつ開設されたのですか。
宮永
平成24年です。小林新也くんという売り出し中の若手デザイナーと組んで、全体を構想しました。小林くんは私の次男坊と一緒に野球を教えていた少年でね。彼が成長して、大阪芸術大学を卒業して、プロのデザイナーになって小野市に戻ってきた。それで彼が「おっちゃん、僕は地場産業のために貢献したい」「小野市の未来のためにも、子どもたちがそろばんに触れられるスペースを一緒に作ろう」というので、企画したんです。
資金がなかったので、クロスを貼る以外、ほぼ手作りです。天井には630丁のそろばんが並んでいます。これ、ぜんぶ私がつくったんです たいへんでしたわ。
天井にびっしりと敷き詰められたそろばんは、宮永さんご自身で手掛けられたのですか。それは疲れますね。
宮永
しんどかったけれど、お子さんと接することで気持ちも若返ります。親御さんも若いです。さまざまな世代の方がお見えになる。おかげで「若い人はこんなふうに考えるんやな」とわかって、ありがたい。いつも新鮮な気持ちでいられますよ。
「そろばんの素材と技術で、別のなにかを作れないか」
点取りーパッドをはじめ、宮永さんから「これまで開発した商品」のリストをいただきましたが、すごい数ですね。ネーミングも楽しくて、名前だけでは何なのかがわからない謎の商品もあります。さすが「小野のエジソン」と異名をとるだけのことはありますね。
宮永
これでも、ごく1部なんですよ。たとえばこのそろばんは玉を動かすと軸に刻まれた数字が見えて答えが確認できるそろばんの第1号『ソロティー』です。そろばんティーチャー、略してソロティー。玉を動かすと軸に刻まれた数字が見えて、答を確認しながら練習できます。
こちらはプラスチック製で、まるで未来のそろばんみたいですね。
宮永
このそろばんは先ほど話をした小林新也くんがデザインをし、新宿のゲーム会社と共同で開発した『ボイスそろばん』です。日本語と英語の読み上げモードがついていて、そろばんから数字の声が出る。日本でも海外でも子供たちが楽しくそろばんを憶えちゃうと。
声が出るそろばんとは、進化していますね。そろばんの部位を使った、別用途の商品もありますね。
宮永
最初にヒットしたのが『合格お守りそろばん』。上の5の玉は固定されており、動きません。下の4個の玉は連結して動きますので5か9(合格)しか出ない。そんなそろばんなんです。
派生して、昔の5つ玉そろばんの9を固定して動かなくさせ、最後の下の玉1個が上にあがれば10(とう)、さがれば9(く)という「10か9」(当確)しか出ない『当確(10か9)お守りそろばん』もあります。選挙にも使えるし、競馬・麻雀・宝くじなど大当たり祈願にもなるんです。
答が1か8にしかならない「イチかバチか ギャンブルお守りそろばん」も思いついたのですが、労力のわりに売れない気がして諦めました(笑)。
これはゲームですね。おもしろそう。
宮永
『新立体4目並べ』です。ゲームとして開発したんですが、玉をつかむ動作、玉を軸に入れる作業がリハビリに使えるというので、兵庫県立のリハビリテーション施設で採用していただいています。右脳の活性化、認知症予防の脳トレにも使えると評価されているんです。
リハビリに使用されるのは、そろばんの新しい活路という気がしました。
宮永
私も次第に、「困っている人の役にたてるユニバーサルデザインの商品はできないか」と考えるようになりました。「らくらくKEY坊&マウ坊」はその一つです。そろばんの玉を球にして、ほんの少しの力で手がすいすい動くんですよ。マウ坊はベアリングを探してきて、伝統工芸士につくってもらいました。軽く手を添えるだけで自由自在にマウスが動きます。
お年寄りや障害をお持ちの方が、パソコンのキーボードを打つために手をスライドさせられるように開発したんですが、発売したら健常者も「手が疲れない」といって買ってくれた。お客様の反応で、商品に新たな価値が生まれていくのがおもしろいですね。
試作段階で御破算にした商品はありますか。
宮永
足つぼを刺激するための健康器具を作ろうと、最初はそろばんの玉をそのまま使ったのですが、実際に踏んでみると痛うて歩かれへん(笑)。それで改良して「つぼふみ君」ができたんです。健康器具は全般によう売れました。「なんでそろばんメーカーが健康器具なんだ」と嘲笑するやつもいましたが、「悔しかったら作ってみろ」と言いたかったですね。
宮永さんが発明した商品には遊び心あるように感じます。なぜこんなに楽しい商品が思いつくのでしょうか。
宮永
「これでええんか?」です。頭の中にいつもクエスチョンマークがあって、「これでええんか?」「これ以外ないのか?」というふうに物事を見るようにしているからだと思います。
たとえば、嫁さんと一緒にイオンへ買い物に行ったら、「ラーメンだけで、なんでこんなに種類があんねやろ?」と考えるわけです。そして商品名やキャッチコピーもぜんぶ読んで憶える。そんなふうに、世の中のいろんなもんにヒントを得ながら、たとえばそろばんが自動車のかたちをしていて車輪で実際に動く『計算できるんカー』などの商品が生まれてくる。
つねに「新しいヒントはないか」「そろばんの素材と技術で、なにか作れないか」と考えています。アイデアが夢の中にも出てくるんです。そやから夜中に5回は目がさめますね。
失敗を恐れず、新しい商品にチャレンジし続ける姿勢はすごいと思います。反対に危機を感じた時期はありましたか。
宮永
一時期は「そろばんを完全にやめよう」と、ギフトに転業していたんです。急速に売り上げは伸びましたが、急速に駄目になりました。
やっぱりそろばんメーカーは、計算機としてのそろばんを諦めてはいけない。その原点を見失ってはいけなかった。昔から「読み・書き・そろばん」という言葉があるように、物事を考える基礎にそろばんがあると思うんです。そろばん塾を4級でやめた私が言うのもなんですが(苦笑)。
日本の少子化が進むなら「これからは世界が相手だ」
現在そろばんの海外普及に努めていらっしゃると聞きました。海外進出の手ごたえを感じておられますか。
宮永
大いに感じています。今、世界140ヶ国に珠算教室があるんです。日本は少子化・人口減少が進んでいます。だからこそ「これからは世界が相手だ」と考えているんです。
海外とのつながりができたのは平成24年です。レバノンから「日本式の珠算教室がやりたい」というご相談をいただき、そろばん指導の手伝いにいったんですよ。日本古来の教育3原則「読み・書き・そろばん」が海の向こうで評価されているんですね。
そうして毎年5月にレバノンへ渡っていたんですが、そろばんが子どもの計算学習能力・思考力をたかめる効果があると各地へ伝わり、次第に海外からのオーダーが増えてきた。中国・台湾・ベトナム・インドネシア・シンガポール・南アフリカ、この頃はアメリカのシアトルにも取引先ができたんです。
世界各地でそろばん大会もあって、そのたびに日本から素材一式を持って出張そろばんビレッジを開きました。そういったご縁で世界にそろばんのマーケットが広がっていったんです…が、2020年、世界に広がった新型コロナウイルス感染症の影響でそろばんの輸出も激減しました。今年に入り海外からのそろばんの注文が戻ってきています。これからの世界のそろばん需要に期待しているところです。
宮永さんがいなかったら、そろばんの海外需要はそこまで広がらなかったのではないでしょうか。
宮永
そろばんを輸出するなんて過去に考えた人はいなかったですよ。言葉の壁? ノーノ―ノー。ブロークンな英語と身振り手振りがあったら伝わります。
おもろいことが起きなあかんし、起こさなあかん
現在、5代目の長男さん、製造責任者の次男さんが会社を支えています。息子さんたちに伝えている思い、アドバイスしていることがらはありますか。
宮永
特に何も言っていません。長男はどうも私のバカげた発想を好ましく思っていないようで(苦笑)。「親父と同じことはやりたくない」と言うてます。私も自分の親父にそう思っていたんやから、歴史は繰り返すんですね。私と同じことをせずに成功すればそれが一番いい。彼らなりに良い仕事をやってくれればいいと思います。
宮永さんは会長・理事長自らそろばんの普及のために国内はもとより海外を飛び回っています。なぜそこまで情熱を抱いてがんばれるのでしょうか。
宮永
播州そろばんへの感謝の気持ちからですね。73年間、そろばんのおかげで生きてこれました。播州そろばんを守り続けつつ、新しいそろばんを考えることが、そろばんの世界に生まれてきた私の使命であり運命かな。
やっぱりね、おもろいことが起きなあかんし、起こさなあかんのですよ。他人がやらんことをどんどんやらないと、おもろない。自ら壁を見つけて、その壁をぶち破らないと。今後も人に迷惑をかけないように、できるだけ新しい商品を考えてゆきたいですね。
パワーがみなぎっていますね。気持ちを若く保ち続けていられる秘訣はなんでしょうか。
宮永
見るもの聴くもの、何事に対しても「そろばんと何か関係できるものがないかな」と、つねにアンテナを張る。子どもたちや近所の人たちと出会うごとに明るく挨拶をして過ごす。そして好きな野球の指導やゴルフプレーに取り組む、これですね。
400年の伝統を重んじながらも、つねに新風を吹かせながら、画期的な商品や体験スペースを生みだし続けた宮永さん。70代にして世界にチャレンジする意欲とフットワークの軽さに感服するばかり。そして「伝統工芸を次世代につなげてゆくとはどういうことか」を改めて考えさせられた。
播州の、日本のそろばんは海を渡るのか。エジソンの電球のように世界中に普及し、子どもたちに計算する喜びを届けられるのか。その「願い」は、宮永さんの熱いパッションにかかっていると感じた次第なり。