「おいしかったで、また来るわ」 一杯のうどんが生んだ出会いの物語(三佳屋 前山博信さん、典江さん)
大阪の繁華街、千日前の道具屋筋を少し横丁に入ったところに来る人を笑顔にしてくれるうどん屋があった。大きな信楽焼のタヌキとおっちゃんの満面の笑顔が描かれたイラスト看板が目印だ。中に入ると、イラストとおんなじ顔のおっちゃんが満面の笑顔で迎えてくれる。この店の主、前山博信さんである。
おっちゃんが作る出汁の効いた手打ちうどんは、とびっきりうまい。誰もが一度食べるとその味が恋しくてまた食べに行かずにはいられなくなるという。1987年に大阪の堺市で店を始め、その後難波千日前、河内長野市で季節料理と手打ちうどんを提供し続けた『三佳屋』である。訳あって、2024年4月20日に惜しまれながら閉店した。現在、和歌山県海南市に居を移した『三佳屋』の店主、前山博信さん、典江さん夫婦に会いに行った。
- 前山博信(まえやま・ひろのぶ)さん
1953年大阪生まれの大阪育ち。大学卒業後、サラリーマンを経験するもうどんに導かれ老舗のうどん店で修行を重ねる。1987年に大阪府堺市で『三佳屋』を創業。地域の人気店となる。2008年に『熱い心のつるつるうどん 三佳屋』を難波千日前の一角にオープン。訪日客に手打ちうどん体験などを実施し、世界各国からお客さんを迎える。その後、河内長野市に移転し、7年間営業。2024年4月に閉店。和歌山県海南市に居を移すが、たびたびお客さんからは連絡と訪問がある。
閉店後にフランスから和歌山までお客さまが訪ねてきた!
和歌山県海南市の前山さんのご自宅を訪ねた。外から見える位置に『三佳屋』に置かれていたでっかい信楽焼のタヌキが鎮座していた。常連客が訪ねて来たときに「三佳屋のおっちゃんの家だ」と分かりやすいから道路から見える場所に置いているそうだ。
和歌山に行くから店を閉めることをお客さんたちに告げると、「続けて欲しい」と、かなり言われたそうだ。そうは言っても店が閉店すればいつしか忘れてしまうのが人の常である。ところが『三佳屋』の場合は、ちょっと様子が違った。
前山さん
店を閉める言うたら、みんな和歌山まで来るいうねん。
リップサービスではなく、本当にやってきた。もちろん、まだ自宅で営業をしているわけではない。前山さんにメールで行くからと連絡をしてくる人もいれば、突然、家までやってくる人もいる。店の常連客だった人達だ。そんな突然の来客を前山さん夫婦は『三佳屋』にいたときと同じように出迎える。
和歌山に居を移したときに、いち早くやってきたのが、少しの間、難波千日前のお店で働いてくれていたこともあるピエールさんだった。はるばるフランスから会いに来たのだ。
前山さん
和歌山に移って、すぐに会いに来てくれたので、びっくりしましたが嬉しかったです。
ピエールさんはワーキングホリデーで日本に来たときに、日本になかなか馴染めず日本が嫌いになりそうになったという。そんな頃に常連客に連れられて『三佳屋』にやってきた。これがピエールさんとの最初の出会いである。ピエールさんは、店に来て、暖かく出迎えてくれた前山夫婦に出会い、とびっきりおいしいうどんを食べて日本のイメージが一変してしまう。日本が大好きに変わったのだ。現在、フランスでMiyoshiyaと店名につけたコーヒーショップを計画中だという。
前山さん
昔から知っている人が”久しぶり”やといいながら来てくれたり、サプライズでいきなり来た人もいます。会いたかったって。
前山さんは、急な来客でも迷惑がることなく、喜んで迎えている。
これまで店が成り立ってきたのは、最愛の妻、典江さんおかげだと前山さんは言う。取材中、大阪から来てくれていた2人の娘さんも「うん、うん」とうなずいていた。店を閉める頃、典江さんがケガをしてしまい、大変だったようだが、それも今はずい分回復してきた。
一度食べるとまた食べたくなるうどん
前山さんはうどん屋になる前は、会社勤めをしていた。うどん屋になったきっかけはなんだったんだろうか。
前山さん
会社に勤めていたときの仕事は嫌ではなかったんです。ただ自分でやったことがそのまま評価につながるようなことがやりたくなったんです。
前山さんの脳裏に浮かんだのは、うどん屋だった。前山さんは、大学の時にアルバイトしていたうどん屋に相談に行くと、うどんは出汁が大事だから出汁の勉強をしなさいとアドバイスを受けた。
前山さん
うどん屋に勤めながら修行を始めました。
老舗のうどん店で修行を続けた前山さんは、どんどんうどんにのめり込んでいき、麺や出汁の研究を重ねた。修行先のうどん屋で店長をしていたときに、商社に勤めていた典江さんと結婚。それを機に独立して店を出す決意を固めた。典江さんは、商社を辞めてうどん店へ勤務し、修行をしたという。こうして、1987年、堺市でうどん屋を独立開業した。
典江さん
最初の店では出前もしていたので、少しでも遅くなったらちょっと怖いお客さんにきつく叱られて。出前はやりたくないと泣いたこともあったんです。けど、甘えたこというてられへん、こんな弱音はいている場合やないと決めてからは、強くなりました。
おだやかで芯の強い典江さんは、お客さんに安らぎを与えてくれる存在だ。苦労しても乗り越えられたのは、典江さんのおかげだと前山さん。
だれにも負けない自信が持てる出汁とちょうどいい堅さのうどんにたどり着いた前山さんの手打ちうどんは、コシはあるが堅すぎないうどんだという。
出汁の昆布は、北海道利尻島で採れる、漁業組合が規定した昆布の等級の中もっとも高い一等の鬼昆布(オニコンブ)を使用している。濃厚で特有の香りと甘みがある昆布である。それにカツオ、サバ、ウルメを加えて出汁をとる。保存料などは一切加えず、手間暇惜しまずに日々、おいしさを追求し続けてきた。
前山さんのうどんは、一度食べるとどうも忘れられなくなり、前山さんに会うと、また会いたくなるらしいのだ。
またここでうどんを食べたいから、生きる希望がわいた
長年、店を経営している間には、いろんなお客さんに出会う。常に一期一会を大切にしている前山さんは、どんなときでも変わらず全力でお客さんに接する。お客さんとしゃべりすぎて、うどん作りが止まってしまうこともたびたびあったそうで、「お父さん、早くうどん作って」と、よく叱られたそうだ。
そんな前山さんには忘れられないお客さんがいる。
前山さん
ちょうど店が終わりかけでそろそろ仕舞おうかというときに40歳くらいの女の人が1人で入ってきたんです。そのときはうちの名物の“どて焼きカレーうどん”をお出ししたんです。
閉店間際だったので、他にはお客さんはいなかった。その女性は、食べ終わった後に前山さんに、こう言ったそうだ。
「私、ここに来るまで死のうと思ってたんです。でもうどんを食べて、もう一度うどんを食べにこようって思って。生きる希望が持てました」と。
前山さんは泣いた。うどんを食べた後にそんな気持ちになってくれたことが嬉しくてたまらなかった。
他にもうどんを食べて、前山さんの笑顔に出会い、生きる勇気を持った人がいる。大腸がんの4回目の手術を控えていたお客さんから「大将の元気のある字で色紙に書いてほしい」と頼まれ、色紙に書いたという。日々の忙しさで色紙に書いたことも忘れかけていたそうだが、そのお客さんが「大将のうどん食べてたら大丈夫だった」と半年後に元気な姿を見せに来てくれたそうだ。
何年か経って難波におっちゃんのうどん屋があったと言ってもらえたら…
難波の店には世界中からうどんを食べに来た。前山さんは、言葉が通じなくても大阪弁で出迎える。手打ちうどん体験プログラムや書道体験なども開催した。店の広報活動やウェブサイトは娘さんが担当してくれたそうだ。アメリカの人でもヨーロッパの人でもアジアの人でもみんなでうどん作って食べれば仲良くなれた。外国からのお客さんは、一生に一回しか会えないかもしれない。だから、店に来たときは喜んでもらいたいという思いがあったという。言葉が通じなくても一生懸命コミュニケーションを取ったそうだ。
前山さん
めちゃ楽しかったです。何十年か経ってね、難波にあった店の前を通ったときに、昔ここに『三佳屋』っていう店があったんや、おっちゃんがおったなあと言ってくれる店になりたいです。
『三佳屋』があった場所は、今は別の店が営業している。ただ、前山さんはひとつだけ残してきたものがある。店があった場所から少し離れたところにお地蔵さんがある。そこに『三佳屋』の名前が記されているそうだ。
取材をしていても前山さんご夫婦のお客さんに対する愛情が伝わってくる。うどんの話やお客さんの話をしているときの前山さんは、実に幸せそうな顔で話してくれる。話を聞いているうちにまだ食べたことのないその忘れられない味のうどんが無性に食べたくなってきた。前山さんは、「気軽にいつでも、うどん食べに来て」と満面の笑顔で言ってくれた。
お客さんに愛され続けた『三佳屋』は、閉店したが、前山さんのうどん人生はまだ続いている。
「僕、今幸せですねん」と前山さん。
前山夫婦の今の目標は、今までひいきにしてもらったお礼も込めて1日1組限定で『三佳屋』を自宅で開業することだと聞き、 早くその日が来るといいですねと話していたのだが、取材後に、娘さんからこんなメールが届いた。
「おかげさまで、来年令和7年(2025年)2月頃より和歌山にて、ご予約で営業再開予定となりました」
なにより人との出会いを大切にしてきた前山さんご夫婦のうどん人生はまだまだこれからだ。
和歌山の自宅での復活が待ち遠しい。