かっこよい人

生涯現役!多彩な音楽活動を続けている
91歳のジャズピアニスト 大塚善章さん

半世紀以上前に放送された伝説的番組がある。1969年から1982年まで放送された毎日放送(MBS)制作の公開バラエティ番組『ヤングおー!おー!』 だ。笑福亭仁鶴、桂三枝(現·文枝)、明石家さんま、島田紳助等この番組から次々にスターが誕生した。公開形式の番組のステージには”古谷充とザ·フレッシュメン”という生バンドが入り、番組を盛り上げる重要な役割を担った。その中心メンバーとしてピアノを担当していたのがジャズピアニストの大塚善章さんである。今なお音楽への情熱を持ち続け、90歳を超えても現役で演奏活動を続けている。大塚さんの心に響く演奏は世代を超えて人々を魅了し続けている。2024年には日本ジャズ音楽協会が選出する「ジャズ大賞(ピアノ)」受賞した。大阪生まれの大阪育ち、今なお好きな音楽を追求し続けている大塚さんに話を伺った。

大塚 善章(おおつか·ぜんしょう)さん
ジャズピアニスト·作曲家·編曲·音楽プロデューサー

1934年大阪生まれ、26歳でサックス奏者の古谷充(ふるやたかし)と共にJAZZグループ”ザ·フレッシュメン”を結成し、グループの中心的存在として活躍。演奏活動のみならず映画·TVドラマ·CM等にも手腕を発揮。1980年頃よりソロ活動を開始。故郷大阪を謳いあげる壮大なピアノコンチェルト「上町台地」を音楽生活30周年記念リサイタルにて発表。「上町台地」シリーズはライフワークとなる。2024年11月に「大塚善章音楽生活70周年·卒寿記念リサイタル」で「上町台地2024」を発表。同年「ジャズ大賞(ピアノ)」受賞(日本ジャズ音楽協会が選出)。次世代を担う若きミュージシャンと精力的にライブ活動を行なっている。NPO法人関西ジャズ協会·会長。

目次

学校のピアノを女子生徒と競って弾いた中学時代

2024年11月に「大塚善章音楽生活70周年·卒寿記念リサイタル」を終え、今なお、多くのミュージシャンとライブ活動を続けている大塚さん。一度ライブにお邪魔したのだが、年齢をまったく感じさせない軽やかで力強いピアノ演奏は、お客さんを楽しませたいという思いが伝わってくるサービス精神旺盛のステージだった。待ち合わせ場所に、ダンディでさっそうと現れた大塚さんを見て、カッコいい! と思わず声が出そうになった。若い!
大塚さんのパワーの源はなんでしょうか?

大塚 善章(以下、大塚)
64,5歳の頃からヨガをやっています。ヨガの基本は背中を伸ばすことなんです。


そういって、前屈して見せてくれた。柔らかい!
実は2022年に脊椎管狭窄症の手術をしたというのだ。手術がうまくいかなければ「下半身不随になるかもしれない」と言われた一大決心のいる手術だった。手術は無事成功し、リハビリを頑張り、片足で立つことができるまでに回復したそうだ。リハビリには今も通っているそうだ。
昭和9年生まれの大塚さんがどんなきっかけでピアノと出会ったのだろうか?

大塚
祖母がクリスチャンでオルガンを弾いて賛美歌を歌いたいというので父が買ったものが祖母が亡くなってから家にきたんです。足踏みオルガンです。幼稚園の頃です。僕は7人兄弟の末っ子で、自分で分からないところは兄貴や姉が弾くのを見て覚えました。すぐ上の姉、その次の姉、そしてすぐ上の兄貴もみんな音楽に熱心だったんです。もう一人の姉も合唱団に入ってました。とにかく独学で、人が弾くのを見て覚えました。

これが、大塚さんと鍵盤との出会いである。時代は戦争へと突入し、学童疎開も経験したそうだ。

大塚
家に『世界音楽全集』が全巻揃っていました。1冊、1円50銭だったかな。毎月買っていて90冊すべてあったんです。そこにシンフォニー(クラッシック音楽の交響曲)のスコアも入ってたんで、ありがたかったなあ。

スコアを見てありがたいと思ってしまうというのは普通ではない。音楽を吸収したいという思いが人一倍強かったようだ。旧制の中学に進むと、音楽室と講堂にそれぞれピアノがあったそうだ。それが、大塚さんが初めて弾いたピアノだった。当時のことを大塚さんは鮮明に記憶していた。

大塚
嬉しかったですねえ。僕と同じようにピアノを弾くのを待ち構えていた女子生徒がいたんで、休憩時間にピアノを弾く順番を取り合いしました。高校のときは、授業中にピアノを弾いていても何にも言われませんでした。ラッキーな話でしょ。

おおらかな高校である。その高校というのが、大阪市内の真ん中の上町台地に位置する場所にある大阪有数の進学校である大阪府立高津高校だ。
大塚さんが高校1年生になった昭和24年、野球部が甲子園に出場することになった。甲子園に出れば、試合前には必ず校歌が流れるのだが、高津高校には校歌がなかった。当時、学制改革があり、中学が高校に昇格し、高津中学校の校歌はあったが、高津高校の校歌はなかったのだ。学校としては、どうしても校歌が必要だった。
このことが、大塚さんの人生にとって大きな分岐点になった。

最初に作曲したのは高校の校歌だった

大塚
高校の校歌がないのはおかしいとなって、僕が高校2年のときに生徒に校歌の作詞と作曲を募集したんです。

生徒に校歌の作詞や作曲を募集するというのは、あまり聞いたことがない。何人かの応募の中、大塚さんの曲が選ばれたのだ。
作詞も高校生、作曲も高校生であった。
実は、大塚さんは、まさか自分が作曲した校歌は、そのときだけのことだと思っていたそうだ。ところが…

大塚
ラジオ大阪の深夜ラジオの曜日パーソナリティーをしていたときに、高津高校の学生からハガキが来ましてね。私の通っている高校は校歌の作曲者とあなたの名前が同姓同名ですが、同一人物ですか? って。ずっと歌い継がれていたことをその時に知りました。バンドマンはええ加減ですねん。そこから生活態度を改めました

ハガキをもらって以来、襟を正した大塚さん。現在も高津高校の校歌として歌い継がれている。高津高校のホームページを見ると、校歌誕生の経緯が書かれていたので、一部、抜粋させてもらった。

【校歌「朝霧」について】
現在の校歌は、1945年の大阪大空襲で校舎が焼失し、1948年に復旧するという時代背景の中、翌1949年に野球部が甲子園に出場した際に、生徒から募集し、投票により決定したものです。

29期生(高校4期生)で、現在も現役ジャズピアニストとしてご活躍の大塚善章さんが作曲されました。

校歌といいますと、「○○高校校歌」と、タイトルは付いていないことが一般的ですが、本校の校歌には「朝霧」というタイトルが付けられています。

また、校歌の歌詞には、各番の終わりなどに学校名が盛り込まれることが多いようですが、本校の校歌では、3番ではじめて「高津」が出てきます。

さらに、歌詞を見てみますと、2番/愛と平和の間の「自由」という言葉で、来る未来への期待が、3番「白亜の姿 仰ぐとき…」では、「焼け野原に校舎が残っている。友達がおり、いろんなことができる」という終戦後の復興への思いが、見事に盛り込まれています。

加えて、3番に「星の影」というフレーズがありますが、この「星」は旧制中学の「中」を表す、いわゆる「六稜(りくりょう)」であり、旧制中学校に対する敬意にも溢れています。

本当に行き届いた内容で、これを高校生が作ったのかと、正直驚かされるとともに、当時の生徒たちの、まさに「創造」に向けた思いの込められた校歌として、今も、生徒たちに歌い継がれています。

大阪府立高津高校 ホームページ·校歌より抜粋

このとき、大塚さんは37、8歳。毎日放送(MBS)制作の公開バラエティ番組『ヤングおー!おー!』 に”古谷充とザ·フレッシュメン”が毎週出ていた頃である。テレビ、ラジオ、ステージに引っ張りだこの人気バンドになっていた。

ジャズのアドリブはなんてチャーミングなんだ!

大塚さんがジャズに惹かれ、ジャズピアニストになった経緯はどんなことがきっかけだったのだろうか。

大塚
最初はアルゼンチンタンゴが好きやったんです。タンゴっていいですよ。サウンドもいいですし、バンドネオンもいいですしね。ただ高校3年生くらいの時に、ジャズのアドリブがすごいチャーミングでね。聴くだけでもすごく惹かれました。兄貴がタンゴバンドをしていたんですが、僕にタンゴを辞めてジャズの方へ変われっていうんでね。僕も素直に”はい”って。それで、大学で軽音楽部に入部しました。

ジャズのことは何もわからないまま軽音楽部に入部したそうだ。そのとき、大学の文化祭に先輩が連れてきたのが、後にバンドを一緒にやることになるサックス奏者の古谷充である。

大塚
先輩が、すごいやつがいると連れてきたんです。こんな人いてんねんなというくらいすばらしいサックスでした。お互い気が合いました。2人とも生意気やったけどね。

こうして、大塚さんはジャズピアニストとしての1歩を踏み出した。1961年にアート·ブレイキーとジャズメッセンジャーズの初来日公演を機に空前のジャズブームが到来する。

大塚
東京からゲストバンドが来ると、ずい分刺激を受けました。

東京進出は考えなかったのでしょうか。

大塚
僕はザ·フレッシュメンのアレンジや音楽全体を任されていたんです。東京から声もかかったんですが、大阪で自分のやりたいことができていました。レコーディングの話があると、僕がアレンジしたり、オリジナルの曲を作ると使ってもらえましたしね。めちゃめちゃ楽しかったんです。

大塚さんが入っていたプロダクションにいた坂本スミ子 ※1)が大人気となり、バンドも一緒に全国ツアーに出るなど、忙しさに拍車がかかった。その頃は今の仕事より、もっと自分が好きな音楽をやりたい。ジャズをやりたいと思ったそうだ。

※1)坂本スミ子:「ラテンの女王」と呼ばれた歌手。61年から5回連続でNHK紅白歌合戦に出場。映画「楢山節考」で女優としても国際的に高い評価を得る。

大塚
考えてみたら反省することが多いです。天狗になっていたり、大スターに偉そうにいうたりしましたねえ。若いときは分からへんのですわ。一緒に音楽しているときはみんな仲間なんですよ。ジャズピアニストのホレス・シルヴァー(Horace Silver)が好きで、ああいう風になりたいと思ってました。なれるわけないのにね。

ジャズ以外にもクラシックや現代音楽もおもしろいと思う時期もあったという。なんとかジャズの世界にそれができないかと、いろんなことをしたが結局は元のところに戻ってくると大塚さん。根っからジャズが好きなのである。

大塚
僕の音楽はこれやったなと分かるようになったのは、だいたい30年程やってからです。やっぱり、1950年代に始まり1960年代まで続いたハード・バップ(Hard bop)※2) というスタイルが自分に一番フィットしていると気が付くわけです。やっぱりブルージーな感じがないとジャズは面白くない。

※2)ハード・バップ(Hard bop):1950年代に始まった1960年代半ばまで続いたジャズ黄金時代の象徴といえる音楽。

故郷大阪を謳いあげる壮大なピアノコンツェルト『上町台地』

やがて大塚さんは、自らの音楽世界を構築するためにザ·フレッシュメンを退団し、多彩な活動を展開する。

大塚
初めてリサイタルをやろうと思ったのが50歳の時です。その頃にイラストレーターで大阪に造詣の深い成瀬國晴さん ※3) と知り合って上町台地のことを教えてもらっい、これやと思いました。上町台地は大阪の文化の中心やった場所です。上町台地という言葉に惹かれました。

「上町台地」とは、大阪平野の中央を南北に伸びる台地で、大阪城は上町台地の先端にあたる。大塚さんが生まれた場所もまさしく上町台地の真ん中あたりであった。
大塚さんは、1984年の初リサイタルで壮大なピアノコンツェルト『上町台地’84』を発表し、好評を博した。以来、『上町台地』はシリーズ化し、大塚さんのライフワークとなる。5年ごとのリサイタルで『上町台地』シリーズを発表し、2024年11月の「大塚善章音楽生活70周年·卒寿記念リサイタル」では、「上町台地2024」を発表した。また、能面をテーマにしたCD作品『組曲·面(おもて)』は、小面(こおもて)、獅子口(ししぐち)、邯鄲男(かんたんおとこ)、三光尉(さんこうじょう)、癋見悪尉(べしみあくじょう)の5曲からなる組曲である。この曲は、能面師に出会い、その作品を見たときに曲想が湧いてきたそうだ。『組曲·面(おもて)』はスイスやフランスのコンサートでも好評を得る。

※3)成瀬國晴:昭和11年大阪生まれのイラストレーター。上方お笑い大賞審査員特別賞、日本漫画家協会賞、文部科学大臣賞など受賞。著書に「新 上方タレント101人」「夢は正夢 阪神タイガースの20年」「学童集団疎開70年 画集『時空の旅』」などがある。

ピアノを弾き続け、今も現役でライブ活動を続けている大塚さん。ずっと続けてこれた秘訣を伺った。

大塚
ピアノが好きだからですね。それと、幸いなことに元気だから。それが一番ですね。ずっと続けていると、60歳くらいになって初めて分かることが多いんです。なんで今頃やねんと思います。だから元気で長生きしないと、思いを遂げられない。若い時に気がつかなかったことが理解できるし、理解するのが早い。

ただ、過去を振り返ると反省することが多いそうだ。

大塚
つくづく思うんですが、反省することが多いです。ライブをやると、リクエストがあるでしょ。若いときは、気に入らない曲はやらなかったんです。やればできるのにやらなかったんですよ。やってあげたらよかったなって思うんです。例えば、グレンミラーの曲をリクエストされたときとかに、ビッグバンドの演奏は僕らにできないと断ったんですよ。『茶色の小瓶』とかよくリクエストされたんですが、5人のバンドではグレンミラーそのものの演奏はできないわけです。でもメロディーだけでも演奏してあげたらよかったなって今は思います。

お客さんに喜んでもらいたいという思いが強いのだ。「50歳くらい年下の子でもいい音楽をする子がいっぱいいます。嬉しいですね」と大塚さんは言う。
生涯に1曲でも満点がとれればそれでよし! そういいながらまだ、1度も満点はとれていない、死ぬまで無理だと。だからピアノは生涯辞められない。

大塚善章さんインフォメーション

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写真提供・大塚善章
文・湯川真理子

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