林家木久扇に聞く!【前編】
「清貧」ではなく、「入金」にこだわる異色の落語家の金銭哲学

2024年3月をもって、55年間にわたって出演し続けた『笑点』大喜利メンバーを卒業した林家木久扇さん。
そんな木久扇さんが卒業後、初の著作『木久扇の昭和芸能史』(草思社)を上梓した。昭和歌謡マニアの林家たけ平さんと、思い出の喜劇人、芸人、俳優たちについて語り合った傑作対談本だ。
このインタビューでは、戦争で家を焼かれて小学生のころからアルバイト三昧だった少年時代、漫画家の見習いから落語家に転身したいきさつ、イラストレーターや結婚式の司会などの副業に励むなか、「入金」という人生のモットーに至るいきさつまで、じっくり話をうかがった。
今年の10月19日で88歳の米寿を迎える木久扇さんだが、そのバイタリティあふれる人柄と金銭哲学には、多くの学びがあるはずだ。
記事は前編と後編に分けて公開します。
- 林家木久扇(はやしや・きくおう)
1937(昭和12)年、東京日本橋生まれ。高校卒業後、「食品メーカーの社員」、「漫画家・清水崑の書生」を経て1960年、三代目桂三木助に入門。1961年に八代目林家正蔵(彦六)門下に移り、「林家木久蔵」となる。1969年、日本テレビ『笑点』の大喜利レギュラーメンバーになり、2024年に卒業するまで約55年間出演する。6月13日(金)には「米寿、芸能生活65周年 林家木久扇/落語家生活30周年 林家木久蔵 記念公演落語会」が渋谷区文化総合センター大和田で開催される(落語公演スケジュール)

戦争のせいで小学生のときから働くしか
なかった。それが今のぼくのルーツです
昭和12(1937)年生まれの木久扇さん。やはり、少年時代の戦争体験はその後の人生に大きな影響を及ぼしたことでしょうね?
木久扇
はい、それは間違いないですね。小学校にあがるころには、戦況がだいぶ悪化して、毎日のように空襲がありました。それで昭和20(1945)年の3月10日、3回目の東京大空襲のとき、日本橋久松町の実家の雑貨問屋は全焼してしまいました。
もう、それは言葉で表せないほどの衝撃的な出来事です。ですから最近、テレビでウクライナのニュースをやってるのを見るたび、当時のことを思い出してしまうんです。爆撃で建物が壊されて、瓦礫が町のあちこちに転がっているあの様子は、ぼくの少年時代の記憶にぴったり重なるんです。本当に、戦争ほどむごいものはありません。
長男だった木久扇さんは家計を助けるため、小学4年生から新聞配達のアルバイトを始めるんですよね?
木久扇
当時の子どもにとって、働くのは当たり前のことでした。どこの家も空襲で焼かれて、何にもないところから立ちあがらなければいけないんですから。新聞配達の途中、納豆売りしている友だちとすれ違って、「よう、お前、いくらもらってんの?」なんて情報交換したりして。
鉄屑がよく売れる時代で、腰からぶらさげたヒモに大きな磁石をくくりつけて焼け跡を歩くと、クギや空き缶がくっついてくるんで、それがお金になるんです。そんな風に子どもの身ながら、つねに経済のことを考えてました。
『木久扇の昭和芸能史』(草思社)には、映画館でアイスキャンデー売りをしたことを語られていますね?
木久扇
当時の働く子どもたちにとって、銭湯が社交場でした。ある日、映画館の家の子どもと脱衣場で会って、「キミん家の映画館でアイスキャンデー売らせてくれない?」って交渉したんです。
そのころぼくは西荻窪に住んでたんですが、すぐそばに遠い親戚がやってる坂本屋っていう和菓子屋さんがあって、そこでアイスキャンデーを卸してもらって1本5円で売ろうというビジネスモデルです。確か、映画館のほうにもいくらかマージンを払っていたと思います。夏休みは、それでだいぶ稼ぎました。
このアルバイトでよかったのは、何度も映画を観られたことです。最初から全部観られるわけではないんだけど、アイスキャンデーは休憩時間に売るから、映画が終わる5分前くらいに中に入るんです。昔の映画の最後の5分というのは、一番いいシーンだから、何度も観るうちに主役の立ち居振舞やセリフが頭に焼きつきました。ぼくがチャンバラスターの片岡千恵蔵さんとか、嵐寛寿郎さんのモノマネをしたりするようになったのは、そのあたりにルーツがあるんじゃないかと思います。

「サザエさん」の稿料を聞いて、
せっかく就職した会社を1カ月でやめました
新聞配達を高校卒業まで続けた木久扇さんはその後、森永乳業に就職しますが、わずか1カ月で退職してしまいます。何があったのでしょう?
木久扇
初任給をもらったときに、絵を描くのが好きな者同士で仲のよかった永瀬くんという同級生と高田馬場の大衆酒場に飲みに行ったんです。永瀬くんの就職先は出版社で、漫画の話で盛り上がったついでに、こんな話をしてくれました。
「豊田(ぼくの本名です)、知ってるか? 長谷川町子先生の『サザエさん』の原稿料、4コマで3万円なんだぞ」って。ぼくの初任給は、確か5500円くらいでしたから、それはもう、目が飛びでるほどの金額です。
それで、「豊田は絵がうまいんだから、牛乳なんて売ってないで、男の長谷川町子になればいいじゃないか。お前ならなれるよ」という永瀬くんの言葉に背中を押されて会社を辞めることにしちゃったんです。「清水崑先生が独立した書生の後釜を探してるから行ってみたらどうだ」と紹介してくれたのも永瀬くんでした。
清水崑さんは、カッパの絵や新聞の政治漫画で有名な一流の漫画家ですが、木久扇さんを書生として採用してくれたのは、なぜでしょう?
木久扇
さぁ、ぼくが「漫画家になりたい」とは、ひとことも言わなかったのがよかったのかもしれませんね。
清水先生のお宅は鎌倉にあって、近くに高野佐三郎という剣道の第一人者が開いている道場があったので、そこに通うつもりで剣道の防具一式と竹刀をかついでやってきたぼくを「おもしろい奴だ」と思ってくださったようです。剣道は高校時代からやっていて、初段の腕前でした。
近所に下宿して、朝の8時に先生のお宅にうかがって、夜の8時まで働く約束です。とはいえ、先生は超夜型の人で、深夜から朝まで仕事場で漫画や原稿を書いて、午後の3時まで寝るというペースで働いていましたから、暇な時間が多くてね。
そこで、先生の仕事場で束になってるワラ半紙を拝借して、エンピツでチャンバラ漫画を描いたりしてました。腰にモノサシで見立てた刀を差して、手鏡で自分の表情を確かめながら、「おのおのがた」なんて長谷川一夫の声でモノマネして。
そんなぼくの姿を廊下で見かけた先生に、「おもしろい絵を描くのが漫画家の仕事だが、自分までおもしろくなってどうする」と呆れられたこともあります(笑)。
そこで、清水先生に「お前は漫画家より、落語家に向いている」とアドバイスされるわけですね?
木久扇
そうです。先生は先見の明のある方で、「これからはテレビの時代になる。絵が描けて、落語もできたら売れるよ」と言ってくださったので、その言葉を信じたんですね。ぼくは、今も昔も「売れる」って言葉に弱いんです(笑)。

三木助師匠に弟子入りしたとき、
落語が特別好きなわけではなかった
清水先生の推薦で三代目桂三木助師匠に弟子入りして落語家になった木久扇さんですが、落語には興味があったんですか?
木久扇
いえ、特にそういうことではなかったんです。だから、清水先生が書いてくださった紹介状を読んだ三木助師匠に「そんなにあなたは落語が好きなんですか?」と聞かれたときは困りましたよ。もっと困ったのは、「私の落語では何をお聞きになりましたか?」と聞かれたときです。
落語の演目なんて、全然知らない。だけど、目の前にいる師匠に何か言わなきゃいけない。とっさに、ラジオで聞いたことのある「饅頭こわい」の題名が口に出ました。
実は「饅頭こわい」というのは、若手が鍛錬のために演じる前座噺なので、三木助師匠のような名人が演るようなものではないんです。だけど、このとき、奇跡のような偶然があってぼくは救われました。
というのも、その数日前、三木助師匠は二ツ目時代の柳家小ゑん(後の立川談志)さんや三遊亭全生(後の五代目圓楽)さんといった若手の落語会に出ていて、そこで「スケ(助演)で出たから」という理由で「饅頭こわい」のような軽い噺を演じていたんですね。「あの若手の会にあなたもいらっしゃったんですか」と師匠が納得してくれたときは、心底ホッとしました。
食えない下積み時代、
副業を頑張って稼ぎまくりました
落語家になった木久扇さんですが、本業以外にさまざまな副業をしていたそうですね?
木久扇
落語家というのは前座から始めて、二ツ目、真打と昇進していくんですけど、当時の前座の収入は2日で250円。ラーメン一杯が60円だった時代ですから、当然それだけでは足りません。
そこで、清水先生のところで知りあった編集者に頼んで「旅行読売」とか「るるぶ」といった雑誌でイラストを描く仕事をもらいました。絵は家に帰ればひとりで描けますから、両立できるんです。
あと、予備校なんかで使う参考書に動物の絵を描く仕事もしました。こちらは1枚描くと1300円になりました。
そこで、「4枚描いてください」って注文されても、10枚描いて持っていくんです。で、「枚数、間違っちゃった。でも、いいのがあったら使ってください」と頼んで、2枚、3枚、余計に買い取ってもらうんです。そんな風にして、ずいぶん稼がしてもらいました。
清水先生のところにいた4年間は、無駄になっていなかったんですね?
木久扇
ええ、その通りです。ちなみに「旅行読売」では、「木久ちゃんの日本巡り旅」という連載を持たせてもらって、観光バスに乗って、いろんなところを旅する仕事もしました。
移動中はバスガイドさんと掛け合いでしゃべったり、小噺をやったりして、目的地に着けば宴会の司会をするんです。
そこで知りあったお客さんには名刺を配っていましたから、結婚式の司会もずいぶん頼まれました。
すごい営業力ですね。前座の落語家さんで、自分の名刺を刷っている人なんて誰もしなかったんじゃないですか?
木久扇
そうでしょうね。名刺は印刷屋に頼んで刷ってもらってました。印刷というものに敏感だったのは、漫画を描いていたからでしょうね。

今では珍しくないのかもしれませんが、「結婚式の司会をつとめる落語家」というのも、木久扇さんが草分けなのではないですか?
木久扇
人の結婚式ではだいぶ儲けさせてもらいましたけど、自分の結婚式では大失敗をしてるんです。なんと、自分の結婚式と同じ日に、別のホテルの結婚式の司会の仕事を入れちゃった。
別のホテルというのは、帝国ホテルです。それくらい格式の高いホテルになると、披露宴の食卓メニューの案内状にぼくの名前が司会者として印刷で刷り込まれているので代役は立てられないという。これには困りました。
ただ幸いなことに、ぼくの結婚式は帝国ホテルの近くにある有楽町の東京会館だったから、そちらのほうに代役を立てることにしました。友だちの柳家小えん(故柳家つば女)に新郎席に座ってもらって、途中で抜け出してお堀端の道を紋付袴の姿で全力疾走。あのときは本当に肝を冷やしました(笑)。

サイドビジネスでは噺のネタになるくらい
何度も大損してますよ
真打になってからも木久扇さんは、本業以外のところでさまざまなサイドビジネスを展開していますね?
木久扇
発明品は、60個くらい作ってます。そのなかで一番ウケたのは、1回でふたり分のお茶を入れられる「二口急須」ですね。
前座時代、寄席の楽屋にいる師匠たちにお茶を入れるのが大事な仕事のひとつなんですけど、注ぎ口がふたつあったら手間がはぶけるんじゃないかと思いついたんです。
ただ、あまり儲かりはしませんでした。窯元に頼んで作ってもらったんですけど、大量生産と言えるほどたくさん頼んだわけではなかったので、製造費が高くついちゃったんです。
ただ、マスコミに取り上げられたりして話題になったから、よかったのかなとも思ってます。

儲かった話ばかりじゃなくて、失敗した話もあるんですね?
木久扇
そんなの、たくさんありますよ。例えば、海水浴場で水を売ったことがあります。海水浴場って、全国からいろんな人たちが来るでしょ? そこで、日本各地の名水と言われるご当地の水を1杯60円で売ったんです。
ところが、当時は今のようにペットボトルで水を売るような時代じゃなかったのであんまり売れなくて、水の輸送費のほうが高くついちゃった。それで、大赤字です。
それから昭和53(1978)年にタイのパタヤビーチというところに旅行したとき、大きな夕日が沈むなか、象が海辺を歩く景色を見て感動しましてね。「日本の海で象の背中に子どもを乗せたら儲かるんじゃないか」と思いついて、60万円で子どもの象を買ったんです。このとき、象の名前もいっしょに考えました。「木久蔵」にかけて、「キク象」ってね(笑)。
埼玉県に象の家を作って準備していたら、「ワシントン条約」というものがあって、象は絶滅のおそれがあるからタイの国外に持ち出せないと言われてしまったんです。もちろん、それまで投資したお金はまるごとパアです。
師匠の失敗は、スケールが大きいですね。
木久扇
木久蔵ラーメンでも大失敗をしています。スペインでバルセロナオリンピックが開かれる2年前の平成元(1989)年、「カーサ・デ・ボスケ・キク(木久ちゃん館)」っていうラーメン店を開いたんです。ヨーロッパ中にラーメンブームを起こそうと思って、そのきっかけとしてオリンピックの時期を選んだんですね。
ナイスなアイデアです。
木久扇
ぼくもそう思ったんだけど、3つの誤算がありました。
ひとつは、スペインの水は日本の水と違って硬水で、ラーメンの麺がおいしく茹だらない。それを最低限クリアするために、高価な特製の浄水器を買わなければなりませんでした。
もうひとつの誤算は、スペインの人たちが猫舌だったこと。アツアツのラーメンは日本人にとっては必須条件ですけど、おいしさの基準が国によって違うんだということを計算に入れていなかった。
最後の誤算は、スペインにシエスタの習慣があるということ。昼の1時から4時まで、スペインの人たちは昼寝をするんです。だから、本来なら繁盛するはずのランチタイムにお客が全然来ないんです。
そういうわけで、オリンピックが終わってしばらくしたころに無念の撤退をすることになりました。損失額は、7000万円くらい。
インバウンドが盛り上がって、ラーメンが外国人にも人気のメニューになっている今の時代だったら、「木久ちゃん館」はもっと流行ったかもしれませんね。
木久扇
そうですねぇ。これも海の家で水を売ったときと同じで、時代が早すぎたんですね。ぼくは江戸っ子だから、せっかちですぐ調子に乗って突っ走ってしまうところがあるんですけど、その性格が裏目に出たのかもしれません。

「うまい」より、「ウケる」を目指したい。
だって、そのほうが「儲かる」から
これまでの話を聞いてみると、木久扇さんが「入金」の二文字を座右の銘にしていることが納得できるような気がします。
木久扇
ぼくが「入金」ということを意識するようになったのは、ずいぶん前のことです。それこそ、さっき話した結婚式の司会の副業をやっていたころ。
帝国ホテルの宴会課には栗田貢助さんという方がいて、この人は結婚式のケーキ入刀を最初に考えたほどのアイデアマンで頭の切れる方で、ぼくをずいぶんひいきにしてくれたんです。
栗田さんは、ぼくが結婚式の段取りの打ち合わせに行くと、帰りにかならずいくばくかのお金を払ってくれました。ある日、「本番じゃないのに、どうしてお金をくれるんですか?」と聞くと、こんな風におっしゃった。
「打ち合わせとはいえ、あなたの貴重な時間をいただいているんだから、お金を払うのは当然です」と。そのとき、「2日で150円」の前座時代を経験していたぼくは、お金の価値というものの本当の意味を教えてもらったような気がしました。
何にもしないでボーッと過ごした時間にお金は生まれない。だけど、時間が貴重なものだと考えて、頭を働かせていろんなことに挑戦するときにお金は生まれる。そう考えてみると、お金を稼ぐ術は、生きていくことに直結することなんですね。
なんだか落語家ではなく、一流企業の経営者に話を聞いているような気分です。
木久扇
確かに東京の芸人で、こんな話をするのはぼくくらいかもしれません。特に落語の世界では、「噺家は貧乏でもいい」と考える人が多くて、お金のことをあれこれ言うのを恥とする風潮があります。
だけど、そういう人に限って「うまい落語家になりたい」とか、「名人と呼ばれたい」とか、「賞や勲章をもらいたい」ということには敏感なんですよね。ぼくの価値観とは正反対の考えです。
ぼくが仲間内とか、権威ある人に評価されるのに興味を持たないのはなぜかというと、お金にならないからです。
落語家という職業の本来の使命は、目の前に来てくれたお客さんを楽しませることでしょ? 落語家の噺を聞いて、笑って、笑って、時間を忘れるほどの楽しい時を過ごしてほしい。それがぼくが思っている落語家が目指すべきことで、それ以外のところで評価されても、一文の得にもならないと思うんです。
ぼくは戦争のさなかで、厳しい経験をしました。
実家は雑貨問屋をしていて、空襲で焼かれる前は豊かで楽しい日々をおくっていましたけど、戦争を境に貧しい生活のむごさを知りました。貧しい暮らしをしているときに、人は笑えないものです。それは、明るい噺をする落語家にも言えることであって、人を笑わすには自分自身の暮らしも豊かにしないとできないことだと思うんですよね。
とても含蓄のあるお話、ありがとうございます。後編のインタビューでは、『笑点』の大喜利コーナーのレギュラーメンバーとして過ごした55年の歴史と、番組を卒業されたいきさつ、それから三代目桂三木助と八代目林家正蔵というふたりの師匠のエピソードなどについて、お話をうかがっていきたいと思います。


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エノケン、ロッパ、シミキン、トニー谷、堺駿二、てんぷくトリオの三波伸介、コント55号の坂上二郎、横山やすし、そのほか嵐寛寿郎や片岡千恵蔵といった好きなチャンバラスターなどについて語り尽くす。
そのほか、小学生時代の新聞配達から始まり、映画館のアイスキャンデー売り、観光バスのガイドツアーやキャバレーまわりの話など、本業以外のサイドビジネスにも語られているのが大きな魅力。
「昭和100年」を目前にして往古を振り返る寄す処として本書は格好のガイドブックになるに違いない。
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