33年間アメ横を見つめた千葉速人さんが語る、時代の変化「ガラッと変わったのはここ数年」
海産物からミリタリーショップ、金銀革製品、飲み屋から古着までありとあらゆる専門店が軒を連ね、その数は約400店舗にのぼる。ニッチからメジャーまでなんでもありの商店街が、上野「アメ横」だ。
誰も拒むことのない混沌さと熱気が凝縮された雰囲気が特徴のアメ横だが、この地に魅了され33年間を過ごしたのが、レザーショップ『ALBUQUERQUE (アルバカーキ)』の店主・千葉速人さんだ。
今回は千葉さんの人生についてインタビュー。自由でありながら筋の通った人生と、アメ横との出会いについて語ってもらった。
- 千葉速人
昭和29年に岩手で生まれ、自衛隊を経験したのち上京。会計事務所やおもちゃ会社などを経て、アメ横でレザーショップ『ALBUQUERQUE』をオープン。
その後はアメ横商店街連合会の広報やアメ横通り中央商店新興組合の代表理事を務める。
始まりは親父への反骨精神
千葉さんはどちらの出身なんですか?
千葉
岩手の奥州市で生まれ育ちました。実家が電気屋を営んでいたんですが、私は商売が嫌いだったんですよ(笑)。どうしてもやりたくなくて、高校を卒業してから19歳で自衛隊に入隊しました。
自衛隊ではどんなことをしていたのですか?
千葉
管制気象隊という部署で働いていました。天気図を書いて、ヘリを飛ばせるかどうかや、どこを通ったらいいのかなどを指示する部署ですね。その仕事は好きでした。いまだに天気図を見たりしていますよ。
ただ同じことを繰り返す日々があまり性に合わなかったみたいで、自衛隊は4年で辞めました。それから東京に上京して、『吉野家』のトラック配達員を始めました。でも吉野家が昭和55年に一度倒産してしまって、また仕事を探さなければいけなくなったんです(笑)。
吉野家が一度倒産したことがあるのは知らなかったです……。
千葉
いまの若い世代は意外と知らない人も多いですよね(笑)。どうしようかと思いまして、妻に相談したんです。そしたら「あなたは数字が強いんだから、そういう仕事についたら?」と言われました。たしかに自衛隊にいたときもずっと数字に向き合う仕事をしていたので、会計事務所に勤めることにしたんです。
そろばんや簿記の資格は持っていたのですが、会計の現場で働いていたわけではないので最初は全然戦力にならず、しばらくは夜間学校に通いながら働く生活を続けました。
千葉
会計事務所には5、6年勤めていました。それからおもちゃ会社を経て、ゴルフの会員権を販売する仕事もしていました。当時はバブル絶頂期でしたから、ゴルフの会員権もものすごく売れたんです。バブルが弾けてからその会社は倒産してしまったんですけどね。
ものすごい時代ですね……。当時千葉さんはおいくつでしたか?
千葉
35歳です。「さあ、これからどうしようか」と真剣に考えたときに、知り合いが「アメ横に場所が空いたから、お店をやってみないか?」と声をかけてきたんです。
混沌の街・アメ横との出会い
35年前のアメ横はどんな街だったのですか?
千葉
まず、アメ横に場所が空くなんてありえませんでした。表通りは魚屋さんが多かったんですけど、建物のなかは1、2坪くらいの小さな専門店がびっしり並んでいました。いわゆる“物販の街”ですね。私も最初はたった1坪のスペースでスタートしました。それでも家賃は45万円くらいかかりましたね。いまは変わりましたが、当時は又貸しが主流だったのでそれだけ家賃も高かったんだと思います。
どうしてそこまでのリスクを負って商売をやろうと決断したのですか?
千葉
最初は私も無理だと思っていました。周りにも「お前は1年持たない」って言われましたよ(笑)。でもアメ横を見ているうちに、なんかおもしろそうだなと思ったんです。儲かるかどうかじゃなくて、“おもしろそう”だから始めたんです。たまたま場所が空いたのも、何かの縁だったんだと思います。
そもそも私は商売をやりたくなくて、実家を出てきた人間なんですけどね。なのに最終的には親父の言っていた商売人をしているので、人生はわからないものだとしみじみ感じています(笑)。
『ALBUQUERQUE (アルバカーキ)』はレザーショップですが、なぜ革専門店にすることにしたのでしょうか?
千葉
当時向かい側に金屋さんと銀屋さんが入ってたんです。金銀と相性がいいのは革かな、と思って選びました。最初の1年は苦しかったですね。赤字が続きましたが、営業の仕事をしていた妻の販売力に救われました。妻にはいまだに救われています。その後、3年目からなんとか軌道に乗ってきたんです。
3年後に2号店を出して、しばらくしてから3号店も出しました。3号店は革製品ではなく、フィギュアなどのおもちゃを販売していました。以前勤めていたおもちゃ会社のつてもあり、『スター・ウォーズ』の俳優さんたちを海外から呼んで、サイン会を開いたりもしたんですよ。
それはすごいですね。かなり話題になったのではないですか?
千葉
ただサイン会をするだけではなくてホテルや食事まで同行して、いま思えばよくやりましたよ(笑)。そういう自分の好きなことをしていたので、いまも商売人が続けられているんでしょうね。結局、やりたいことをやるのが楽しいのだと思います。
アルバカーキも楽しいですよ。アメリカまで行って買い付けをするんですけど、「こんなの絶対売れないだろう」っていうのを買ってきて、店に置いておくと売れるんですよ。これがアメ横の不思議なところですよね。
アメ横に行けば「車以外はなんでも揃う」
絶対売れないと思ったものでも、アメ横なら売れる。不思議ですね。
千葉
これがアメ横の魅力ですよ。お客さんも探索するようにして買い物をするんです。ここに来ないと出会えないようなものを求めてやってきます。だから、逆にありふれたものだけを売っているんじゃ、当時はやっていけなかったですね(笑)。
昔はいまよりも専門性が高い店が多かったんですか?
千葉
専門店だらけでしたよ。たとえば、香水と言えば御徒町でしたね。あそこには香水を売っている店だけで20店舗近くありましたから。いまは2、3店舗くらいに減ってしまいましたけど。輸入物も豊富で値段も安かったので、みんな買いに来てましたね。
あとはジーンズの発祥は上野なんですよ。『マルセル』っていうジーンズショップがあるんですけど、初めて国内でジーンズを販売した店だと言われています。最初は進駐軍が『マルセル』に腕時計を売りに来たそうなんです。そのときに履いていたのがジーンズだったようで、『マルセル』の創業者の檜山さんが買い取って売ったのが始まりなんです。
アメ横には物販の歴史が詰まっていますね。
千葉
でもここ数年で、アメ横もガラッと雰囲気が変わりましたね。通りを歩いている人の7割が外国から来た人です。
外国の人はいつごろから増え始めたのですか?
千葉
10数年前ほど前にケバブの店ができたんです。それがアメ横で初めての飲食店舗(テイクアウト店舗)だったんですよ。
それまでアメ横に飲食店はなかったんですか? いまはかなりの数の飲食店がありますよね。
千葉
それまでは居酒屋どころかコンビニもなかったんですけどね。いまは飲食店が45店舗ほど出店しています。昼前から飲みに来る人もかなり増えましたね。居酒屋がこれだけ増えたのは本当にここ最近。5、6年前ごろからです。
徐々に押し寄せる時代の変化
数年で急激に変わったんでしょうか?
千葉
コロナ禍になる少し前からですね。背景としては、物販の店の跡を継ぐ人がいなかったからだと思います。潰れた店の土地を貸し出し、借りたのが外国の人だったということでしょうね。あと2、3年したらアメ横も中国街のようになるのではないかと少し心配しています。ただ土地を貸す人も生活がかかっているので、難しい問題ですよね。
一見人通りも多く活発なように見えますが、内情にはそういったことが起こっていたんですね。
千葉
ただ、若い人がたくさん来てくれているのはありがたいですね。お酒を飲みに来る人がほとんどではあるのですが、若い人がこれから成長していって上野を盛り上げてくれることを願います。
“おもしろそう”だからやる。やりたいことをやる。終始その軸をブラさず、さまざまな仕事を経験してきた千葉さん。そんな千葉さんだからこそ、個性的な店が集まり、独特な雰囲気を醸し出す商店街・アメ横の虜になったのだろう。
一見賑やかな表通りに目が惹かれがちだが、少し奥を覗くとより一層ディープなアメ横を感じることができる。ぜひアメ横に訪れた際は、いつもより一歩先を覗いてみてほしい。深い物売りの歴史に触れることができるだろう。