かっこよい人

別所哲也インタビュー【前編】
夢をカタチにする「ドリームリスト」

2023年1月7日から明治座で上演されるミュージカル『チェーザレ 破壊の創造者』に出演する別所哲也さん。
大学在学中にミュージカルの舞台で俳優デビューを果たし、早くもその3年後にはハリウッド映画でスクリーンデビューして、エンターテインメントの華々しい世界で生きてきた別所さんだが、意外なことに30歳を過ぎたころ、「理由のない不安」にかられてスランプ状態になったという。
インタビュー前編では、そんな別所さんを救ったショートフィルムとの出会いと、現在に至るまで20年以上続いている日本初の国際短編映画祭「ショートショート フィルムフェスティバル & アジア」の起ちあげ秘話などについて、話を聞いた。
ゼロからイチを生み出す「夢をカタチにする方法」について、たくさんのヒントが得られる迫真のインタビューだ!

インタビューは前編と後編に分けて公開します。

別所哲也(べっしょ・てつや)
1965年生まれ、静岡県出身。1990年、日米合作映画『クライシス2050』でハリウッドデビュー。米国俳優協会(SAG)会員。その後、映画、ドラマ、舞台、ラジオなどで幅広く活躍中。『レ・ミゼラブル』、『ミス・サイゴン』といった大型ミュージカル作品への出演経験も豊富に持つ。1999年より、日本発の国際短編映画祭「ショートショート フィルムフェスティバル & アジア」を主宰し、文化庁長官表彰受賞。
目次

このインタビューは、ミュージカル『チェーザレ 破壊の創造者』の製作発表の会場である大井競馬場にて行われた。

30歳を過ぎて突然やってきた
アイデンティティ・クライシス

1987年、慶應義塾大学在学中にミュージカル『ファンタスティックス』で俳優デビューした別所さんですが、演劇には幼いころから興味があったんですか?

別所
演劇に興味を持ったのは、大学生になってからです。ESSの英語劇を上演するサークルで活動したのが直接のきっかけなんですが、始めた動機は「英語をうまく話せるようになりたい」というのが先で、「演劇をやりたい」というのは後になって付いてきた動機でした。

英語でスピーチをしたり、ディベートとかをやるより、体を動かすほうが向いてるかな、と思ったのが入り口で、だんだん架空の人間像を造形したり、舞台上に異次元の空間を創り出すおもしろさにハマっていったんですね。

俳優デビュー3年目にして日米合作映画『クライシス2050』でハリウッドデビュー。その後も映画、ドラマ、舞台で大きな役を得ています。トントン拍子の勢いですね?

別所
自分では、そういう実感はなかったですね。バブルが崩壊して、世の中が閉塞感に包まれ始めたころでもありましたし、「自分が明日、どうなっているかわからないぞ」という思いがつねにありました。それは、今もそうなんですけどね。

そんなとき支えになったのが、父がよく言っていた言葉、「人間、ハダカで生まれてきたんだから、ダメになったら最初からやり直せばいい」でした。

ハリウッド作品に出演することができたというのも、僕にとっては大きな出来事でした。日本で暮らしている分には、自分が日本人であるということは意識しないけど、海外に身を置いて「日本って、どういう国なんだ?」と聞かれたとき、明確な答えを持っていない自分に気づかされて。

それをきっかけに、「自分は日本人なんだ」と胸を張って言えるようなものを身につけようと、20代はガムシャラに突っ走ってきました。

その反動でしょうか。30歳を過ぎたころから、何か理由のない不安を感じるようになったんです。

理由のない不安。それは、どんな不安ですか?

別所
30歳を過ぎれば、もう新人とは言えません。何もかもが新鮮に見えた20代と違って、それなりの経験を積んで、ものの道理もある程度読めるようになった反面、新しいことに対する高揚感が少なくなったように感じたんです。

決して俳優という仕事が嫌になったわけではないけど、クリエイティブだと思っていたこの仕事が、スケジュールをこなすだけのルーチンワークのようなものになっていたんですね。

そこで、仕事を休ませてもらうことにして、3か月ほどロサンゼルスで過ごして自分を見つめ直すことにしました。スクリーンデビューしたハリウッドの地で、「日本人として恥ずかしくない仕事をしよう」と決意したころの自分を思い出したかったんですね。

ショートフィルムとの出会いで
「理由のない不安」は吹き飛んだ

そして、ショートフィルムというジャンルの表現手段に出会うわけですね?

別所
そうです。2か月を過ごして3か月目になったとき、現地で住んでいたタウンハウスの不動産管理会社をやっていた知り合いに「大学の仲間が初めて撮ったショートフィルムを上演するから、一緒に行かない?」と誘われたんです。

実は、それ以前にも現地の仲間から「見に行こうぜ」と誘われたことがあったんですが、「短編映画? そんなのを見ても、得るものなんてあるはずがない」という先入観があって、ずっと敬遠していたんです。にもかかわらず、そのときだけ行ってみようと思ったのは、「若い監督に出会うチャンスだよ」という言葉に後押しされたからでした。

ですから、実際に上映された作品を見るまでは、まったく期待していませんでした。
それだけに、その素晴らしさに気づいた衝撃は大きかったです。

おそらく、上映時間は全部合わせても90分くらいだったと思います。
そのなかに、コメディあり、サスペンスあり、ヒューマンドラマあり、長編映画に負けないほど多岐に渡る作品があって、そのどれもがおもしろい。俳優たちの演技はもちろん、カメラや美術などの表現のクオリティの高さに魅了されました。

映画というものは2時間前後1800円払って映画館で見るものという僕の思い込みは、根底から覆されました。たった3分、5分の時間でも、人を感動させることは可能なんだということを見せつけられたわけです。

コッポラも、ルーカスも、スピルバーグも、無名時代に制作したショートフィルムが評価されて世に出たそうですね?

別所
当時はそんな当たり前のことも知りませんでした。ホント、恥じ入るばかりです。

ですから、日本に帰ってからは、少しでも多くの人にショートフィルムの素晴らしさを知ってもらおうと、働きかけることにしました。

でも、どれだけ熱意を込めて語っても、ぜんぜん伝わらないんです。「ショートフィルムを見に行かないか?」という仲間の誘いを断り続けていたかつての僕のように「ショートフィルム=実験映画=エンターテインメント性ゼロ=見る価値なし」と思い込みがあるんですね。

ならば、実際に向こうで上映されているショートフィルムを持ってきて見せるしかない。そういう発想になっていきました。

人生初の名刺を作って自ら営業。
熱意だけが武器だった

それが日本発の国際短編映画祭「ショートショート フィルムフェスティバル & アジア」の開催につながるんですね。それにしても、大胆すぎる発想じゃないですか?

別所
最初のうちは僕も、仲間うちの試写会のような小規模なものを考えていました。

ところが時期を同じくして、俳優のロバート・レッドフォードが主宰する「サンダンス映画祭」を見に行くことになって、映画祭というものの素晴らしさに触発されたんです。

関係者であろうとなかろうと、映画好きな人たちがさまざまな国から集まってきて、同じ空間を共有しながら映画について語り合う。有名も無名も、国籍も関係なく、映画への愛情を深め合う集いに触れて、「自分でもやってみたい」という情熱が湧きあがってきたんです。そのときはもう、30代の「理由なき不安」なんて、どこかに吹き飛んでいましたね。

幸運だったのは、僕の情熱に賛同して、手伝ってくれる友人がいたこと。
ロサンゼルスに現地法人を起ちあげて、作品の調達と契約業務をできるようになったのは、彼ら彼女らの協力なしにはあり得ませんでした。

とはいえ、4~5人の少数精鋭ですから、僕自身も人生初の名刺を作って、作品集めやスポンサー探しに奔走しました。

映画祭では、ジョージ・ルーカスが南カリフォルニア大学(USC)の学生だったころに撮った短編作品も上映したそうですね。上映許可は、どうやって取ったのですか?

別所
USCの図書館のアーカイブで作品を見つけて、ルーカス・フィルムにメールで依頼したんです。
「日本にはショートフィルムの映画祭がないので作りたい」、「一過性のイベントではなく、継続性のある文化事業として実現したい」、「日本にはあなたのショートフィルムを見たいと思っている人がきっとたくさんいます」と、考えられる限りのアピール要素をつぎ込んで。

もちろん、僕が俳優だからといって、向こうにその名前が知られているわけではありません。熱意だけが武器でした。

だから、ほどなくしてルーカス・フィルムの広報担当者から「許可」の文字が書かれたメールを受けとったときは、本当に興奮したし、海の者とも山の者とも知れない僕らにチャンスをくれた寛大さに感謝しましたよ。

実際、「ジョージ・ルーカスの短編作品を上映する」という文言を企画書に入れることができたおかげで、アメリカ大使館の後援を得ることができたし、マイクロソフト社やノースウエスト航空といった名だたる企業とスポンサー契約を結ぶことができたわけですから。


映画祭は1回目より
2回目の起ちあげのほうがキツかった

1999年、原宿のラフォーレミュージアムで開催された「ショートショートフィルムフェスティバル」(当時の名称は「アメリカン・ショートショートフィルムフェスティバル」)は、3日間で8500人を集めるほどの大成功を果たしました。このとき開催した、大使館主催のパーティーにはジョージ・ルーカス氏本人が出席したそうですね?

別所
そう、タイミングのいいことに、ルーカスさんは『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』のプロモーションで来日していたんです。

アポ無しで宿泊先のホテルを訪ね、挨拶をしたとき、「おっ、君か」という感じでフィルムを貸し出したことを覚えてくれているようでうれしかったですね。

でも、さすがに映画祭に来てくれるほどのスケジュールの余裕はなかったようで、パーティーの招待状だけ渡したんです。すると、「この時間はプライベートだから」と言って、顔を出してくれたんです。

振り返ってみると、第1回目の映画祭は、こうしたいくつもの幸運に恵まれて実現できたということがよくわかります。まさにビギナーズラックですね。

ですから、翌年の2回目の映画祭の設計作業は、これまでの映画祭の歴史のなかでもっとも大変な作業でした。

確かに1度目が成功しても、2度目に成功するとは限りませんからね。

別所
お芝居にも言えることなんですが、1度成功してしまうと、次に同じ作業をしようとするとき、1回目の作業をなぞってしまうというクセが人間にはあるんですね。

でも、「去年はこれをやったから」という理由で今年もやる、という発想からは1回目以上の世界観は絶対に生まれません。そこで「こうすべきだった」、「もっと別な方法があったのではないか」という意見を重視して、スタッフ間で何度も確認し合っていました。

開催地を第1回の東京、沖縄に加えて、札幌、名古屋、大阪に増やすことができたのは、そういう発想に頭を切り換えたからだと思います。
その後、開催地は年を追うごとに松本、宮古島、函館、福岡、川越、広島、那須と拡大していきました。
また、2001年からは、会場に来られない人のために、一部の作品を衛星放送の課金システムを利用して見られるように「サテライト開催」を行ったりもしました。

今ではイベントやコンサートなどを映像配信するのは当たり前ですが、2001年と言えば、まだYouTubeも存在していない時代です。すごい発想ですね。

別所
とにかく、「映画祭とはこういうものだ」という先入観を取っ払うことをつねに意識していました。日本初のショートフィルムの映画祭だからこそ、つねに新しいことにチャレンジしなければならない、と。

早く動きたいのなら自分ひとりで行きなさい。
より遠くへ行きたいのなら、みんなで行きなさい

3回目の開催時には、2人の有給の専任スタッフが加わっていますね?

別所
ええ、組織的に大きな変革の時期でした。それからは専任スタッフの報酬を考えて運営しなくてはならなくなったわけですから、身の引き締まる思いでした。

ただ、それで僕の仕事が楽になったかというと、実はその反対で、2倍に増えました。
そう、「教える」という仕事が加わったからです。どんなに優秀なスタッフでも、作業ひとつ一つに「どんな意味があるのか」、「どういうノウハウなのか」をうまく伝えなければ、動いてもらえません。

なかなか伝えることができなくて、「俺って教えるの下手だなぁ」と感じたこともあります。それまでずっと、俳優の仕事しかしてきませんでしたから、マネジメントの知識をイチから勉強するしかありませんでした。

ただ、プロジェクトを受け継いでいくには、必要なステップだったと思います。
僕が仲間作りの意味について、いつも心に留めている言葉があります。
アフリカに伝わっている格言なんですけど、「早く動きたいのなら自分ひとりで行きなさい。より遠くへ行きたいのなら、みんなで行きなさい」という言葉です。
最近、岸田総理が就任後の所信表明演説でこれを引用してビックリしましたけど、僕も以前からずっと大事に心に留めていました。

人生を切り拓いていくには、まず自分が頑張らなければ物事は進まないけれど、プロジェクトをより長く続けるには、規模をより大きくするには、自分ひとりの力ではできません。僕はこの言葉は、真理を突いているなと思うんです。

「ショートショート フィルムフェスティバル & アジア」は2018年に開催20周年を迎え、現在に至っています。「軌道に乗ったな」と確信できたのは、何回目くらいからですか?

別所
10周年を迎えるまでは、「いつ終わっても仕方がない」という感覚がありました。

参加してくれたお客さんから「また来年を楽しみにしています」とか、作品を出品してくれた監督たちから「次はこんな作品を出品したい」と声をかけてもらって、後押ししてもらったことが大きいですね。

10周年の2008年には、ショートフィルム専門の常設映画館「ブリリア ショートショート シアター」を横浜みなとみらいにオープンしたんです。
実はこのプロジェクトは映画祭5周年のころからスタートしたものでした。横浜市の中田宏市長(当時)の「映像文化都市宣言」を機に、横浜の地からショートフィルムの文化を発信していきたいと準備を進めてきました。

2018年からはオンラインシアターに移行して、「Brillia SHORTSHORTS THEATER ONLINE」として世界に配信しています。

夢を形にする
「ドリームリスト」

ところで、俳優業と映画祭事業を両立するのは大変なことだと思います。どんな風にモチベーションを保っているのですか?

別所
映画祭を始めたころ、「そんなの俳優業の役に立たない。損するだけだよ」と複数の人にアドバイスされました。

でも、僕自身は映画祭の仕事は俳優業にもプラスに働いていると思っています。
実際、それぞれの仕事は右脳と左脳のような違いがあって、どんなに忙しくなってもストレスになることがないんです。むしろ、ハートの部分から起こる欲求や知的好奇心の発露は同じだったりするので、俳優業と映画祭が相互作用で僕を刺激してくれるんですね。

あと、ここまで続けてこれた理由のひとつは、「ドリームリスト」を作ってきたこともあると思います。ああしたい、こうしたいという夢を箇条書きで書き連ねたリストです。

実は「夢」というのは漠然としていて、実際にリストにしてみると、抽象的過ぎて何をやればいいのかわからないものだったりするものです。
そういうときは、その内容を細かく検証して、具体性のあるものに落とし込んでいかなければなりません。
でも、そういう作業を繰り返すたび、その「夢」は現実性を帯びてきます。
そうやって「開催地を増やして規模を拡大」、「映像配信をする」、「専用シアターを開館する」というリストのなかの夢をひとつ一つ形にしてきました。

今、もっとも新しい「ドリームリスト」には、どんな言葉が書かれていますか?

別所
最初に書かれているのは「20世紀に生まれた映画という文化を、21世紀の形に進化させたい」という言葉です。

これまで積み上げられてきた情報をビックデータのような形でアーカイブして、それを発信していく手段を探っていきたい、ということです。

こんな風にリストの内容は、つねに更新されていきます。その更新は、間違いなく一生、続くものだと思っています。

興味深いお話、ありがとうございます。後編のインタビューでは、俳優という仕事に対する心構え、ポリシーなどについて、語っていただきたいと思います。

後編記事はこちら→ 別所哲也インタビュー【後編】57歳になった僕が今、目にしている風景について思うこと。

 

ミュージカル『チェーザレ 破壊の創造者』上演決定!

ミュージカル『チェーザレ 破壊の創造者』ポスター

「モーニング」にて連載されていた累計140万部突破の大ヒット歴史漫画『チェーザレ 破壊の創造者』(惣領冬実 監修:原 基晶 講談社刊)が待望のミュージカル化。
美麗な作画とドラマチックな描写で幅広い層から支持を集める人気作家、惣領冬実による壮大な歴史絵巻がミュージカルとして生まれ変わります。

主演は、名実ともにミュージカル界を牽引するトップスター中川晃教。テクニックに裏打ちされた歌唱力と豊かな表現力で、本作の主人公、チェーザレ・ボルジア役を務めます。

さらに日本演劇界を代表するキャストが集結しました。チェーザレに生涯忠誠を誓う腹心のミゲル・ダ・コレッラ役は、「EXILE」のパフォーマーとして活動をする傍ら、役者としても着実にキャリアを重ねている、橘ケンチ。

そして、チェーザレの父であり、ボルジア家の当主ロドリーゴ・ボルジア役は、映画界の要人にして、大型ミュージカル作品への出演も豊富な別所哲也が演じます。

明治座は、創業以来“初”、幻のオーケストラピットを稼働し、生演奏による本格ミュージカルを上演いたします。

  • 日程:2023年1月7日(土)~2月5日(日)
  • 会場:明治座(東京都中央区日本橋浜町2-31-1)

ミュージカル『チェーザレ 破壊の創造者』
公式ホームページ

取材・文=内藤孝宏(ボブ内藤)
撮影=松谷祐増(TFK)

※掲載の内容は、記事公開時点のものです。情報に誤りがあればご報告ください。
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