かっこよい人

関西ラジオDJにこの人あり!
ヒロ寺平さんの悠々人生

大阪に突如FM802ができたのは、1989年6月1日 のことだ。大阪府で2局目のFM局だ。そこから聞こえてくるヒロ寺平の流暢な英語とイカシタ音楽は、あっという間に関西中の評判となった。おしゃべりが多い関西のラジオにあって音楽に特化したFM802は、日本で初めてヘビーローテーション※1を導入し、ここからヒット曲も数多く生まれた。ラジオDJとして、関西では知らない人はいないヒロ寺平さんだが、2019年9月に突如、自らラジオを引退した。古希を超えても少年のように人生を楽しんでいるヒロ寺平さんに、話を伺った。

※1 ヘビーローテーション:ラジオ放送で,短期間に同じ楽曲を何度も放送すること。聴取者に楽曲を浸透させるために行う。

ヒロ寺平(ひろてらだいら)
1951年生まれ。大阪生まれの大阪育ち。大学卒業後、単身、カナダへ仕事の開拓に行く。楽器メーカー勤務、英会話学校経営を経て、DJに。1989年開局の大阪府で2局目のFM局であるFM802、FM COCOLO(FM802が運営)の看板DJとして活躍。2019年9月に自らラジオDJを引退。以後、YouTube、TikTok などの発信に力を入れている。
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目立ちたい!きっかけは小学生の時のCM出演

実は、長い間、その風貌と流暢な英語にヒロさんのことをハーフか帰国子女だと信じて疑わなかったのだが、大阪生まれの大阪育ち、生粋の大阪人である。大阪市内にあるヒロさんこと、ヒロ寺平さんの自宅兼オフィスにお邪魔した。オフィスは、まるでヒロワールドで、ラジオDJとしての歴史がいっぱい詰まっていた。

還暦祝いにミュージシャンから送られたお祝いコメント

ヒロ寺平
大阪生まれの大阪育ちです。大学を卒業してカナダに2年行きましたが、それは留学ではなく昼間は普通に仕事をして夜学に行くという生活でした。実家はレコード屋で、吉本NGKや千日前道具屋筋のすぐ前。

大阪のにぎやかなところで育ったんですね。どんな子ども時代だったんですか?

ヒロ寺平
音楽に囲まれていましたね。子どもの頃に自分からじゃないんですが、CMに出たんです。私立の小学校へ通っていたときに、突然、先生に3人の男子生徒が呼ばれて、「おーい、こっちへ来て写真撮ってもらえ」て言われてね。電通の人がトリス・コンクジュース※2 のモデルを探していたんです。サントリーがまだ洋酒の寿屋だった頃です。そのときの電通マンがかっこよくて。

勝手にオーディションされたわけですね。3人の中から選ばれたのはヒロさんだけですか?

ヒロ寺平
そう。小学校3年生から5年生まで2年間マスコット坊やでした。ちょっとしたスター気分でした。クリント・イーストウッドにも会わせてもらいました。

僕の宝物がいっぱいあると言っていたオフィスのアルバムには、西部劇『ローハイド』※3 に出演していたクリント・イーストウッドが来日した時の写真が貼られており、そこに小学生のヒロさんも確かにいた。『ローハイド』でもトリス・コンクジュースのCMが流れていたからだ。コンク坊やの初代がヒロさんで、二代目は十八代目 中村 勘三郎(当時は勘九郎)だ。この体験が、目立ちたい原体験になったのかもしれないと言う。

コンク坊やだった頃の写真・ヒロ寺平さんのアルバムより

※2 トリス・コンクジュース:濃縮果汁飲料 洋酒の寿屋(現・サントリー)が発売。
※3 ローハイド:アメリカのテレビ局CBSが制作した1959年1月から1965年12月の6年間で全8シーズン217話が放送された人気西部劇ドラマ。クリント・イーストウッドが世に出るきっかけとなったドラマ。

電通にそっぽを向かれ、カナダに行く

大学時代はハードロックに呆けて、バンド活動に夢中になり、就職活動はまったくしていなかった。プロを目指したのだが、実力のなさを思い知り、あきらめた。慌てて就職を探したときに思い出したのがかっこよかった電通マン。電通を受けてみようと思ったのですが、世の中そんなに甘くはなく就職はできずじまい。

バンド時代のヒロ寺平さん・担当はドラム

ヒロ寺平
電通にそっぽを向かれてどないしょってなったんですよ。親父は楽器の卸売りをしていて、親父の兄はヤマキギターというアコースティックのギターのメーカーだったんです。そこで、親父に「貿易部を作らない?」て持ち掛けてね。それで、将来カナダに貿易部としてギターの直接販売をするために行ったんです。

その行動力はすごかった。カナダの社長に「ヤマキギターの直系の人間です。リペアもできるし、修理のスキルもある。それを教えられます」と直接交渉し、みごと成功し、就職した。朝から夕方5時まで働き、夜は市民大学の夜間クラスで英語を学んだ。2年間のカナダ生活で、好きだった英語はどんどん上達し、本当にしゃべることができるようになった。

ヒロ寺平さんがデザインしたヤマキギター

ヒロ寺平
それまで、日本語で考えてから英語でしゃべるのに時差があったのが、なくなりました。ほんまにしゃべれるようになりました。

貿易部として交渉したヤマキギターはすごく売れた、いや売れすぎた。売れすぎて日本での生産が追い付かず、まだギターが乾ききっていない生乾きの状態でカナダに輸出しようとした。「生乾きだ、割れるぞ」「かまわん」、かまわんはずがなかった。無理をして製造したギターは、すべて割れてしまった。カナダにクレーム処理に出かけたのはヒロさんだったが、当然、相手は怒り心頭である。必死に交渉し、クレーム代を下げようとしたが、難航した。なんとか収めることはできたが、損害は大きかった。父親の会社は倒産してしまう。このとき、ヒロさんは結婚して子どももいたからさあ大変!

音楽知識+リズム感+英語力=ラジオDJやろう!

ヒロ寺平
1977年に父親の会社に入って、83年まで貿易部として働いて、利益も上げたんで、これからは、自分で生きていこうと決めました。妻は実業家と結婚したつもりだったはずだったんですがね。ゼロスタートです。英語ができたんで、翌年から英会話の学校を始めました。最初は1人で小さい英会話学校を始めたんです。その後、規模を広げて今のアメリカ村にできたビルの4階を借りて、99年まで続けました。

ラジオに出演し始めたのもその頃ですよね。きっかけは何だったのでしょうか?

ヒロ寺平
英会話学校はOLが多くて、夜のクラスだけ満席になるんですよ。朝の9時に家を出てから夜までずっと時間があるわけです。いらちな性格なんで、腕を組んでじっと考えてました。僕は音楽はよう知っている。バンドでドラムをしていたからリズム感は抜群、英語はしゃべれる。DJやろう!となったんです。それからDJのオーディションテープ作りをしてあちこちに配ったんですけど、玄関払いですよ。

無名で、実績がない。おしゃべりの勉強もしていない。ないないづくしの中、自分を信じて送り続けたデモテープだったが、どこも門前払いだった。

ヒロ寺平
テープを聴いて声をかけてくれたラジオ局が東京のラジオでした。それもNHK-FMです。それから、今までオーディションテープを送っても見向きもしてくれなかった大阪のラジオ局から「うちでも」「うちでも」と声がかかり始めました。

こうしてラジオDJとしてのスタートを切ったヒロさんに白羽の矢を立てたのが、後に看板DJとなる開局を目前のFM802である。

ヒロ寺平
FM802は89年に開局したんですが、88年にヘッドハンティングされました。タイムテーブルを見せられて、好きなこと言ってくださいと言われたんです。

好きなとこということは、やりたい時間を決められるってことですよね。ありがたい依頼ですね。

ヒロ寺平
最高でしょ。朝の帯番組を打診されたんですが、その時は東京でもやっている番組があったのでそれは無理ですとお断りをしました。すると802からそれでは横オビではなく縦オビはどうですか?と直ぐに切り返され、それは面白いってことになったんです。

こうして、前代未聞の番組が誕生する。毎週金曜日の13時間の生放送『FRIDAY AMUSIC ISLANDS』(AM7時~PM18時)、ヒロさんがたった1人で担当することになった。開局第一声を担当したのもヒロさんだった。

ヒロ寺平
しゃべるだけでなくて、ミキシング、曲選びも全部、やらせてもらいました。

昭和から平成に大きく時代が動いた1989年。FM802から流れるヒロ寺平さんの放送を聴いて「あっ、アメリカのラジオみたい」と感じた人も多かった。縦オビの『FRIDAY AMUSIC ISLANDS』は10年、その後は横オビの『Hiro T’s Morning Jam』と合計14年半続き、FM802といえばヒロ寺平と言われるようになる。そして、2013年からは、FM COCOLO(ココロ)に活躍の場を移し、約30年間、関西のラジオ業界を支えてきた。


FM802の近所にあったヒロ寺平さんのビル模型

突然のラジオDJ引退を自ら発表

2020年の6月3日にFM COCOLOの自身の番組「HIRO T’S AMUSIC MORNING」生放送中に9月末に引退すると電撃発表して、周囲を驚かせた。番組内でも体力気力が衰えたわけでもなく、健康にも問題はないと語っていた。なぜ、愛してやまなかったラジオを自ら引退したのだろうか。

ヒロ寺平
番組内でやることは、どんなことでも全力でやっていきたいんです。だからわがままを言い続けてやりたいことをやってきた。ただ、どうしても温度差が出てきたんです。

取り巻く環境の変化が息苦しくなり、自分を押し殺したままその場所に居続けることに抵抗を覚え自ら辞める決意をしたヒロさん。「古希を超えてもまだまだこどもです。」と苦笑いしていたが、後悔は全くなさそうに見えた。ミキシング、選曲、しゃべる内容もすべてヒロさんがやってきたラジオである。番組はまるごとヒロ寺平である。だからやれないことはやれないと言い続けてきた。それでも局側との温度差が出てきた。最後の番組で流した1曲はヒロさんが中学生の時に出会い、興奮したビートルズのメンバーで現役で活躍し続けているポールマッカートニーの新アルバム「エジプトステーション」の収録曲で誰が何をどう言おうが、毅然と自分の道を進む事にエールを贈る曲「Who Cares」だった。

今までやれなかったことをやる

阪神タイガースの始球式

今、YouTubeやTikTok で配信されていますが、これからさらにやろうとされていることはあるのでしょうか?

ヒロ寺平
ほんまは、ラジオを引退した直後から「世界中とびまわったろ」って思ってプーケット、デンマーク、グアム、メルボルン、ケアンズと行ったのですがその後すぐやって来たコロナ禍に阻まれてそこからは海外旅行が出来なくなりました。でも、それもやっと落ち着いてきたので10月には3年ぶりのプーケットに行く予定です。人生は運があって縁があって、いいタイミングでうまいこと重なる。あの時期にあの場所にいなければ今はないってことが多かった。今は選択肢が膨大にあるから確かに難しいけれど、僕はオール・オア・ナッシングでこれからも進んでいきます。

少路和伸さんの作品・ヒロ寺平さんのために描いた絵

次々に新しいことを見つけ出し、突き進んできたヒロさんである。「今までやれなかったことをやる」というヒロさん。今までやれなかったことはまだまだありそうだ。これからも楽しみがいっぱい待っている。

取材・文=湯川 真理子

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