かっこよい人

志茂田景樹インタビュー!【後編】
僕が要介護4になってもポジティブでいられる理由

前編のインタビューでは、志茂田さんが要介護4の車いすユーザーになったいきさつ、20種以上の転職の末に小説家になるまでのお話をうかがった。
後編では、奇抜なファッションに目覚めたきっかけ、1999年から始めた「よい子に読み聞かせ隊」の話などを聞いていこうと思う。
要介護4の車いすユーザーになってもなぜ、志茂田さんはポジティブでいられるのか? その理由を探っていこう。

前編記事はこちら→志茂田景樹インタビュー!【前編】要介護4の車いすユーザーから見える世界

志茂田景樹(しもだ・かげき)
1940年、静岡県生まれ。中央大学法学部卒業後、さまざまな職を転々としながら作家を志す。1976年、『やっとこ探偵』で小説現代新人賞を受賞。40歳のときに、『黄色い牙』で第83回直木賞を受賞する。その後もミステリー、歴史、エッセイなどの多彩な作品を発表する。また、「よい子に読み聞かせ隊」を結成。自ら隊長となり「読み聞かせ」の実践活動を通して多くの子どもたち、そのお母さん、お父さんと交流を深める様子は、多くのメディアに取り上げられてきた。2010年4月からtwitterを開始。読む者の心に響く名言や、質問者に的確なアドバイスを送る人生相談が話題を呼んでいる。
目次

僕のファッションスタイルが
生まれたきっかけ

志茂田さんと言えば、カラフルな婦人服に身を包んだ奇抜なファッションがトレードマークですが、これにはどんなきっかけがあったんですか?

志茂田
僕流のファッションに目覚めたのは48歳か49歳のとき、アパレルに勤めている女性からニューヨーク土産ということでもらった一足の女物のタイツがきっかけでした。

マリリン・モンローの顔が足首のところから太ももの上部にかけてたくさんプリントされた、奇抜なデザインのタイツです。

女物なんて、履けたもんじゃないと思ったんですが、なんだか気になってしょうがない。

ある日、ホテルに缶詰になって原稿を書いていたとき、勇気を出して履いてみることにしました。そのときのホテルの部屋には大きな姿見の鏡がありました。その前に立って、タイツを履いた自分の姿を見ると、ドキッと心がときめいたんです。

そのときめきは、決して悪い感情ではなかったんですね?

志茂田
はい。悪くないなと思いました。

そこで、ホテルの部屋に持ち込んでいたジーンズと派手なTシャツを着て、タイツと合わせてみました。ジーンズはフロントで借りた裁ちバサミで超短パンにして、タイツがよく見えるようにしてね。

当然、その姿で外を歩いてみました。ショーウィンドに写る自分の姿を横目で見ても、結構イケてると思いました。なんとも清々しい、軽快な気持ちでした。

ただ、すれ違う人、すれ違い人、みんながギョッとした顔をしたり、指さして笑ったりするものだから、さすがに落ち込んできました。

でも、その日は陽気のいい日で、すでに3キロくらいは歩いてきてしまっていました。

進むも地獄、退くも地獄──。

ならばこのまま進むしかないと思って、堂々と歩道のまん中を歩き続けました。
開きなおってみると、まわりの人からジロジロ見られるのにも慣れて、むしろ心地よくさえ感じるようになりました。

これが、僕のファッションスタイルが生まれたきっかけです。

今日、履かれているソックスも、とてもユニークですね?

志茂田
でしょ? これもアメリカの土産としていただいたものです。トランプ元大統領とプーチン大統領のそれぞれセットになっていたものを片足ずつ履いています。

バラエティ番組と執筆活動の
絶妙なバランス

このころから志茂田さんは、テレビやラジオにも出演し、お茶の間の人気者になりますが、こちらのほうはどのようにして始まったんですか?

志茂田
あるとき、週刊文春がグラビアの特集で僕に密着取材をしたんです。出版社主催のパーティに出席するとき、いつもの派手なファッションで出ていましたから「変な作家がいる」とウワサになっていたようです。

その記事が、テレビのバラエティ番組のプロデューサーの目に留まったんですね。日本テレビの『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』とか、『どちら様も!! 笑ってヨロシク』といった番組に呼ばれるようになって、気がついたら『笑っていいとも!』(フジテレビ)のレギュラーになっていました。

そういうタレント活動は、作家としての活動にどのように影響しましたか?

志茂田
執筆というのは、頭の中、胸の中にしまい込んでいたことを紙の上に表現する行為です。その一方、テレビに出るというのは、自分をストレートにさらけ出す行為で、それが噛みあっていいバランスをとれたということです。

ただ、1996年にKIBA BOOKSという出版レーベルを起ちあげて自著やさまざまな書籍を出版するようになってからは、タレント活動が重荷になるようになってきました。

どんなに忙しくなっても小説はボイスレコーダーに声を吹き込んで口述筆記で書き続けていましたけど、ちゃんとしたものを書かなきゃなという気持ちもあって、タレント活動をセーブするようにしました。

読み聞かせを通じて
出会った人との不思議な縁

1999年からは奥様とともに「よい子に読み聞かせ隊」を結成し、全国行脚を始めていますね?

志茂田
書店でのサイン会は読者の方々との貴重な交流の機会ということで、積極的に全国の書店をまわっていたんですけど、どこの会場でも「髪の毛をいろんな色に染めた変なオジサンがいる」ということで、子どもが集まってきたりしてたんですね。

ただ、サイン会だと長くても3分くらいで通り過ぎてしまうので、あるときからサイン会の前に読み聞かせをやることを思いついたんです。

なぜ、読み聞かせだったのでしょう?

志茂田
母親が僕に読み聞かせをしてくれたときの記憶が、蘇ってきたんです。なんとも言えない、いい心地だったなぁ、と。

素直な心や夢を描くことの大切さを伝える童話を自作して、それを読むんですが、途中から物語のスライド上映をしながら、フルートとピアノ、バイオリンなどの音楽隊の伴奏をつけたりして、楽しんでもらえるようにブラッシュアップしてきました。

日本全国、いろいろなところに行かれたと思いますが、そのなかで印象的なエピソードはありますか?

志茂田
2011年の暮れのことです。僕の事務所に読み聞かせの依頼の電話がかかってきました。いつもはスタッフが受けるんですが、その日はたまたま僕が電話を取りました。

東日本大震災で甚大な被害を受けた気仙沼大島で読み聞かせをやって欲しいとの依頼でした。震災から半年、ようやく復興への前向きな気持ちが出てきたとのことでした。

僕は気仙沼大島というところを知らなかったので、いろいろ調べてみると、この島は自然が美しく、「緑の真珠」と呼ばれているということを知りました。そして、その名をつけた人の名前を見たとき、僕は「あっ!」という叫び声を上げていました。

その人の名前は、水上不二といいます。

なぜ、その名を聞いて、驚いたのですか?

志茂田
僕は小学校のころ、『少年』と言う雑誌に毎月掲載されていた、水上不二さんの詩を愛読していました。

水上さんは気仙沼大島で生まれ育ち、その後、東京に出て同人誌を作っていました。そして、その娘さんのK子ちゃんという女の子が、僕が通う小金井の小学校に転校してきたんです。

K子ちゃんは、とても物静かでおとなしい転校生でした。ある日、彼女のお父さんがものを書く人だということを担任の先生から知らされた僕は、ピンとくるものがあって、『少年』の最新刊の水上さんの詩のページを開いて「これ、K子ちゃんのお父さんだよね」と聞きました。K子ちゃんは、黙ってうなずきました。

不二さんが故郷を思って書いたこんな賛辞があります。
「海は命の源、波は命の輝き、大島よ、永遠に緑の真珠なれ」という詩です。

その不二さんの故郷から読み聞かせの依頼がきた。そのことに、不思議な縁を感じました。

大島での読み聞かせは、どうでしたか?

志茂田
大島の港は、がれきの山でした。不二さんの母校の大島小学校で読み聞かせをやりました。

実はこの学校では毎年「水上不二作品作画コンクール」というものを開催していて、その表彰式に記念講演の講師として参加させてもらうことができました。不二さんが遺した詩作品にイメージで絵をつけるコンクールで、この年は11回目の開催でした。

その講演では、僕が小学生のころに特に好きだった不二さんの「海の少年」という詩を朗読しました。その一節を紹介します。

いっきに二十五メートル/もぐっていったあの元気/
うにをつかんでにっこりと/わらって波にういていた

虚弱体質で耳の病気もあって、学校の水泳の時間はいつも見学だった僕の心に不二さんのこの詩が沁みたのです。

病気は自分の「個性」。
仲よく付き合っていくしかない

「よい子に読み聞かせ隊」は通算1900回を超えていたそうですが、関節リウマチの発症で読み聞かせ行脚が中断してしまったのは残念ですね。

志茂田
そうですね。あと1年半もあれば、2000回を超えたでしょう。でも、仕方がありません。

僕が関節リウマチの診断を受けたのは2017年のことですが、実はこの病気は、17歳のときに患った気管支拡張症とつながりがあるんです。

気管支拡張症は、気管支が炎症を起こして拡張し、そこに痰が溜まる病気で、いったん拡張したら治ることのない病気です。

17歳だった僕がそのとき、医者から言われたのは「気管支拡張症というのは老人がかかる病気なんだよ。薬は出すけど治らないからね」ということでした。

どんな薬が処方されたのですか?

志茂田
サルファ剤といって、消炎効果があって痰の量も減る効果があると言われていましたが、それを飲んでも少しも改善されませんでした。

そこで、自分でも医学書を読んで知識を深めたり、東大病院の名医を訪ねたりしましたが、いつも処方されるのは効き目のないサルファ剤なんです。

思えば僕は、小学校、中学校、高校を通じて学校のレントゲン検診では必ず「よくない影が写っている」と言われて精密検査にまわされていました。

小学3年生のときには肺炎になったことがあるんですが、それには関係なく、肋膜炎とか、気管支ぜんそくとか、肺浸潤など、さまざまな診断を受けて、でも、本人の僕は普通に日常生活を送っていたのでいつも「要観察」で済まされていたんです。

つまり、僕の気管支が弱いことは生まれ持ってのことで、これを自分の個性だと思うようにしたんです。それを期に、サルファ剤を飲むのもやめにしました。

自分の体の弱点を「個性」だと思っていたんですね?

志茂田
そう、29歳のときに虫垂炎をこじらせての腹膜炎になって入院しましたが、医者は「高熱で死線をさまよった」と言っていましたが、僕にはそんな感覚はありませんでした。

それ以降、歯科を除いては病院には縁のない生活を半世紀近く続けていたわけですが、2017年に関節リウマチと診断され、2019年には温泉旅館の玄関先での転倒で車いすユーザーになるわけです。

80歳を過ぎて男性アイドルの
「推し」に出会いました

車いすユーザーになったことも、志茂田さんは自分の「個性」だと考えていますか?

志茂田
はい。そうですね。3カ月に1回の通院と、2カ月半に1回の美容院通いなどで年間8、9回くらいしか外出できなくなりましたが、今の自分をそのまま受け入れてみれば、苦しいとか、寂しいとか、ネガティブな感情が湧いてくることはありません。

僕は新しい環境に慣れるのは、得意なんです。なにせ、20代から30代の半ばまで、20回以上の転職をしていたほどですから。もっとも、多くは慣れないうちに転職していますが(笑)。

自宅で過ごす時間のなかで、楽しく感じるのは、どんなときですか?

志茂田
インターネットで知りたいことについて、調べている時間ですね。便利なもので、地球の裏側のことだって好きなだけ調べることができます。

本当に便利な時代になったと思います。パソコン1台あれば、本を読んで得られる以上の知識を得られるんですから。わからない言葉があったとしても、辞書もいりません。

最近では、旧ジャニーズの男性アイドルの動向を目にすることがよくあって、トラジャ(Travis Japan)とWESTのファンになりました。

えっ? 志茂田さんが男子アイドルグループのファンに? どんなきっかけがあったんですか?

志茂田
ネットサーフィンやTwitter(現X)のコメントを読んでいると、「トラジャの松倉海斗くんのファッションが僕に似ている」という書き込みがあって、それでトラジャのことを知ったんです。他のメンバーのことにも興味を持つようになったら、いつの間にか「推し」になっていました。

WESTを知ったのはそのあとのことで、彼らはキャリアが長いだけあって、7人のメンバーの個性が際立っていていいんですよね。

旧ジャニーズ以外では、ランペ(THE RAMPAGE)も好きです。新曲が出るたびにチェックしているんだけど「えっ? こういう曲もやるの」と驚かされることが多くて、いつも楽しみにしているんです。

なぜ女性アイドルではなく、男性アイドルだったのでしょう?

志茂田
乃木坂46も、欅坂46も聴きましたよ。特に欅坂の『ガラスを割れ!』という曲は、今の鬱屈した時代の空気をはねのけるような勢いのある曲だと思って感心しました。

ただ、気脈が通じるというか、理解ができるのは、女性アイドルより、男性アイドルなんですね。同性のよしみということでしょうか。

彼らのライブに行ける体ではないけど、ネットやスマホがあれば好きなだけ「推し活」できます。家に好きな服があっても、それを着て外出する機会がめっきり減ってしまいましたが、「推し」が着ているところを想像するのは楽しい時間です。そんなところに「推し活」の魅力があるように感じますね。

80歳を過ぎても、そうやって新しいこととの出会いがあるって、素敵ですね。

志茂田
本当にそう思います。車いす生活になったとはいえ、自分の世界を広げる手段はいくらでもあるんですね。

車いすユーザーになって4年が経ちましたので、今の生活には大部分のところで慣れました。この境遇は、やむなく選ばされたのかもしれないけれど、好奇心を失わなければ、新しい発見、新しい経験、新しい楽しみに出会えるんです。

だから、僕は車いすユーザーになったことで、不幸になったわけじゃない。未知の世界というのはまだまだたくさんあるし、最後の最後まで、自分の人生を自分なりに楽しみながら生きていきたいですね。

とても励みになるメッセージ、ありがとうございます!

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取材・文=内藤孝宏(ボブ内藤)
撮影=桑原克典(TFK)

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