144年の歴史を持つ『かんだやぶそば』 店とともに生きる“女将”の仕事と人生とは 堀田ますみさんインタビュー
東京都千代田区・神田淡路町。ここは東京の中心地でありながら、昔ながらの老舗店が多く集まっている。乱立するオフィスビルを一歩抜けると、まるで100年前にタイムスリップしたかのような街並みが広がっているのだ。
戦前から現存している建物も多く、なかには『千代田区景観まちづくり重要物件』に指定されている店もある。
今回お話を伺うのは、そんな歴史的な街で時代を駆け抜けた大女将・堀田ますみさん。
明治13年に創業した『かんだやぶそば』を、長年支えてきた大黒柱だ。
歴史あるお店の“女将”という仕事、おそばを通して見るお客さんの顔と神田の街。いったいどのような人生だったのか、堀田さんの目線で語ってもらった。
- 堀田ますみ
1944年生まれ。26歳で結婚し、『かんだやぶそば』へ。37歳で女将を引き継ぎ、店を支える。2022年5月に女将は嫁にバトンタッチ。大女将となり、現在は手不足のときに店を手伝っている。趣味はガーデニング、旅などを楽しむ。
女将の仕事とは
女将とは、具体的にどんなことをする仕事なのでしょうか?
堀田
みなさんが想像する女将の仕事って、注文をお伺いして調理場に通して……という姿かもしれませんが、それだけではないんですよ。もちろんそういったことも仕事のひとつですが、女将というのは“店とともに生きる”のが仕事なんです。
店とともに生きる、というのはどういうことでしょうか?
堀田
“お客さま第一”という言葉がありますよね。もちろんお店にとってお客さまは大切ですが、私にとってお客さまと同じくらいお店に関わるすべての“人”が大切なんです。おそばを食べにきていただいてるお客さまと、お店で働いてくれる従業員、お取引先、そして地域との関係づくりも大事です。それら全部に目を向け、店とともに生きていくのが女将の仕事なんです。
堀田さんが座っている場所は、女将の定位置になるのでしょうか?
堀田
この場所は“帳場”と言います。帳場からは調理場も見えるし、おそばを召し上がっているお客さまの顔も見えるので、お店全体に目を向けることができるんです。
たとえば、このお客さまはゆっくりお酒を飲まれているから、おつまみやおそばもゆっくりお出したほうがいいなとか、次に来るものを待っている素ぶりを見せている方がいれば、ちょっと早めにお出ししたりしています。繁忙期の調理場のようすを見て、わかりやすいようにゆっくりと注文を通したりもしてますね。
見よう見まねで覚えた女将の仕事
堀田さんはどんな子どもだったのでしょうか?
堀田
私は4人兄弟の末っ子で、甘えん坊だったんですよ。姉や兄の後ろにくっついているような子でした。
主人と出会ったのは中学生のときです。同級生で同じクラスだったんですけど、主人にはファンがたくさんいて憧れの存在でした。それに比べて私はチビで真っ黒で、運動神経もないし(笑)。クラス役員を一緒にするようになってから仲良くなりましたね。その後、主人の家はちょっと大きなそば屋さんということを聞いて、「へぇ〜」と思っていました。26歳のときに結婚をしたんですけど、当時の私は、女将と従業員の違いもあんまりよくわかっていなかったんです。大した決心もせずに、結婚しました。
女将になることに対して、ご家族の反応はどうでしたか?
堀田
父は「ますみにできるかな……?」って心配していましたね(笑)。母は私に似て能天気なんで、「康彦さんがついているので大丈夫、できるわよ!」という反応でした。
女将の仕事はどのようにして覚えていったのですか?
堀田
商売のことは何もわからなかったので、主人の両親と同居して朝から晩まで母の仕事や仕草を見て覚えました。着物の着方から掃除の仕方まで、とにかく見ながら育ててもらいましたね。一番下の子が小学校に入るときに、「昼の帳場やってみます」と母に進言したんです。徐々に女将の仕事に慣れてきたのですが、母が脳梗塞で倒れてしまったんです。その後、女将を引き継ぎました。37歳のときでした。
ひとり立ちをしてからはどうでしたか?
堀田
女将の仕事以外にも、母の看病や子どもの世話もしていたので、すべてが終わって夜は1杯飲んで「疲れた……」と、よく弱音を吐いていました(笑)。その後主人のいとこが手伝ってくれるようになって、なんとかお店が回るようになりましたね。主人は業界や地域の活性化など外の仕事を担当していて、お店には私がいつもいるというかたちでした。主人からは、「やぶそばをずっと続けていくために、地域の活性化や都心部の相続税の勉強などをしていかなくてはいけないから、なかのことは頼むね」と言われていましたね。
地域との関係づくりもお店を続けるためには大事なことですよね。昔の神田は、どのような街だったのですか?
堀田
戦前は、とても賑やかな場所でした。そのころはまだ東京駅がなく『万世橋駅』という駅があり、演芸場や旅館なんかもずいぶんたくさんあったようです。『ALWAYS 三丁目の夕日』のような下町でしたね。私が嫁いだころは、道路で子どもが遊んでいて、下駄の音がよく聞こえていました。三味線や日本舞踊のお師匠さんがいたり、お風呂屋さんもありましたね。
時代を超えて愛されるそばの味
『かんだやぶそば』のおそばの特徴について教えてください。
堀田
“1枚の量が少なめ”なことでしょうか。昔は間食の文化があって、お腹いっぱい食べることはあまりなかったんです。そばは小腹を満たすもので、仕事の合間にちょっとおなかに流し込める“間食”のような存在だったんですよ。だから、もう少し食べたいなと感じる人は2枚、3枚と増やして調節もできます。私はこの年になると、1枚の量が絶妙でとても合いますね。
もうひとつの特徴は、“汁は濃い目”だということです。『かんだやぶそば』はそば粉10に対して小麦粉1という“外一”そば。そばの香りを楽しんでいただくため、汁をチョンとつけて豪快にすすります。そばの香りを感じた後に、ほんのり汁の味を楽しんでいただけると思います。少し辛いな、と感じる方には、おそばを汁の3分の1くらいまでつけて召し上がっていただくのがおすすめですね。
“少なめの量”や“濃いめの汁”という特徴は、神田の土地と人に合ったものなんですね。
堀田
そんな背景も含めて、楽しんでいただければと思います。おそばは老若男女誰でも食べることのできるものです。人を選ばずに楽しめるところが素敵ですよね。私はお店にも同じことが言えると思っています。うちは、どんなお客さまにも同じようにくつろいでいただきたいんです。どんなお仕事をしているかたでも、うちに来たら皆同じお客さまです。それが、『かんだやぶそば』の店の在り方であり、そばの魅力でもあるんです。
火災をきっかけに新たな歴史を踏み出す
すごく素敵な店構えですが、2013年の火災をきっかけにリニューアルオープンをしたとお伺いしました。
堀田
店を再開するまで、お客さまからたくさん応援の声をいただきました。名刺を差し込んで「頑張れよ」と声をかけてもらったり、お電話をいただいたりして、励まされていました。
営業再開したのはいつごろですか?
堀田
2014年の10月です。急な出来事だったもんですから、新しいお店のかたちを決めるにはかなり話し合いがありました。大きく変わったところは、店を取り囲む塀をなくしたところと、店内の段差をなくしてバリアフリーにしたところです。以前は座敷が広かったんですけど、膝を痛めている人は、畳に座るのが大変なんです。座敷を減らすことでイス席が増えて、席の間隔もゆとりができて通りやすくなりました。また、車椅子も入れるお手洗いをつくりました。母の介護の経験から、そういったことも必要だと感じたのです。
より快適に過ごせる空間に一新したのですね。
堀田
新しい取り組みに関しては、ずいぶん悩んで決断いたしました。でも、いま思えばいい機会だったのかなと感じています。こんなことでもなければ大きくお店を変えることなんてできなかったと思うので。きっとご先祖さまも、この一部始終を天国から見守っててくれていたような気がします。
現在、ますみさんは大女将になられているとお伺いしました。
堀田
2022年の5月に息子の嫁の由紀と女将を交代しました。やっと肩の荷が降りて、いまは1日が楽しくてしかたないです。孫も6人いて、やりたいことも全部やっていますね。まだお店を完全に去ったわけではないのですが、好きなお花のお世話をしながら、一つずつ、ゆっくりと主婦業を楽しんでいます。
改めて、堀田さんにとって仕事の楽しさとはなんでしょう?
堀田
みなさんがおいしそうに、笑顔で召し上がっていただいてる姿を見たときですね。毎日見ているはずなのに、「私も今日はおそばを食べよう」という気持ちになってしまうんです(笑)。あるお客さまが「子どものころおじいさんに連れられてきて、今度は自分の子どもを連れて来たよ。家族4代で来てるんだ」とおっしゃったときは嬉しかったですね。本当に幸せな気持ちにさせていただいて、うまく言い表せない人の“つながり”のようなものを感じました。
おわりに
最後に堀田さんは、女将という仕事について“つながり”を感じると語った。
目には見えない“つながり”。お客さんや従業員、そのつながりはお店を飛び越え、神田の街全体までつながっているようだ。
その心を持ち続ける限り、『かんだやぶそば』は、きっとこの先も街の人から愛される名店であり続けるのだろう。
約10年前、大きな火災から立ち上がった『かんだやぶそば』。ぜひ機会があれば訪ねてみてほしい。人の心と歴史がつまった、おいしいおそばを楽しめるはずだ。