かっこよい人

リンボウ先生インタビュー(前編) 「思い通りにいかない人生」との付き合い方

今回、登場いただくのは、リンボウ先生こと林望(はやし・のぞむ)さん。
多くの人にとっては、1991年に刊行され、ベストセラーになったエッセイ『イギリスはおいしい』(平凡社・文春文庫)でデビューした人気作家としての印象が強いだろう。
だが、本来の出自は慶應義塾の女子高校をはじめ、東横学園女子短大、東京藝術大学といった学校で古典を教える教育者であり、国文学および書誌学の研究者でもある。また、その才能は声楽家、作詞家、能作・能評論などにも及び、守備範囲は縦横無尽だ。
そんなリンボウ先生が上梓した『定年後の作法』(ちくま新書)について話を聞くとともに、自らの人生を振り返っていただこう。
インタビューは前編と後編、2度に分けてお届けします。

林望(はやし・のぞむ)
1949年生まれ。作家・国文学者。慶應義塾大学大学院博士課程修了。 ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授等を歴任。『イギリスはおいしい』で日本エッセイスト・クラブ賞、『ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録』で国際交流奨励賞、源氏物語の個人全訳『謹訳 源氏物語』で毎日出版文化賞特別賞を受賞。エッセイ、小説の他、歌曲等の詩作、能楽、自動車評論等、著書多数。
目次

社会人の第一歩は、挫折から始まった

中学生のころ、先生は画家か詩人になりたかったそうですね。どんな理由があったのですか?


私が生まれ育った林家には祖父以来、いくつかの家訓がありましてね。
つねづね言い聞かされていたのは、「親と同じことをするな」ということ。それから、「子は親を超えよ」というのでした。さらに父雄二郎は、「好きなことを好きなようにやればよろしい。ただし、やるからには中途半端ではなく、徹底的にやれ」と言ったものでした。

父は、経済企画庁の官僚エコノミストをしていましたが、51歳のときに母校である東京工業大学の教授に転じ、そこでも定年まで相当の年数を残してトヨタ財団の専務理事になり、新設の東京情報大学の学長や日本財団の特別顧問など、さまざまな要職に就いた人です。

ですから、「親と同じことをするな」というのは本来、無理な話なんですが、高校生の頃に私がなりたかったものは詩人と画家でした。父が進んだ理系の工学関連とは正反対の芸術方面で才能を発揮する道だったわけです。

ただ、芸術方面のさまざまな先人の業績を知るにあたって、自分には画家になるほどの才はないだろうと早いうちから察しがついていました。また、詩人になるというのは、画家になるより難しいところがあります。

ですから、高校を卒業して大学進学を考えたとき、「将来は国語の教師になろう」と心に決めて文学部以外の学部は受験しませんでした。幼少期から本の虫で、図書館に入り浸るような子どもだったかというとそうではなく、日本の古典文学にも特別親しみを感じていたわけでもありませんでしたが、不思議にそれ以外の選択肢は考えもしませんでした。

ただ、人生というものは、なかなか思い通りにいくものではありません。

6回ほど大学の就職銓衡に敗れたあと、東横学園女子短大の国文科の専任講師になったのは30歳のときです。

大学院時代には、東洋書誌学研究の第一人者の阿部隆一先生に師事し、慶應義塾大学の附属研究所斯道文庫の研究員になる道も志しましたが、これも2回チャンスがあったけれども、2回とも銓衡に敗れてしまって果すことができませんでした。

先生の社会人としての第一歩は、挫折から始まったんですね?


そうです。その通りです。
ただ、その挫折がきっかけとなって、私にイギリス留学を決意させたのです。日本でダメなら、異国の地で書誌学者としての自分の力を認めてもらおう、そんな背水の陣のつもりで日本を離れたのです。

インタビューした部屋の壁に架けられていた自筆の作品。青年期にはデッサン、油絵、水彩画を洋画家の青木義照氏に学んだという。

縁もゆかりもないイギリスに留学した理由

なぜ、イギリスだったのですか?


それはある意味で、ご縁があったとでもいいましょうか……。当時の私にとって、イギリスは縁もゆかりもない土地でした。

私がまだ学部の学生だった時分に、明星大学が八王子のキャンパスに新図書館を開いてシェイクスピアのコレクションを購入したのですが、その開館記念の特別講演会に英国図書館の東洋文献資料室長のケネス・ガードナー氏の講演を聞いたことがあって、そのときの話の内容を覚えていたというのがイギリスに行こうと思ったきっかけでした。本来、この講演会に招待されていたのは父でしたが、父は行かれないというので私に名代として行ってくるといいと言って招待状を手渡されたわけです。

ともあれ、先生は35歳でイギリスに渡り、武者修行の結果として『ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録』(P.コーニツキとの共著、ケンブリッジ大学出版)という成果を生み出します。


そこにたどりつくまでには、やはり思いがけない出来事がいくつもありました。

何しろイギリスには知り合いもツテもなく、大学や企業などの後ろ楯もありませんでしたから、たとえば大英図書館に行って、「この日本古典籍コレクションは、大変価値のあるものですが、学術的な目録がまだないので、ついては、その目録を私に作らせてもらえないだろうか」と持ちかけたとしても、門前払いされるのは当たり前です。

それでも、いくつもの幸運と、私を評価してくださる方々の援助があって、ロンドン大学アジアアフリカ学部図書館とケンブリッジ大学中央図書館は目録の編纂を私に任せてくれました。

特に、ケンブリッジでの目録作りは1年間で1万冊の文献を調べ上げるという過酷な条件での仕事でしたが、日本で果たせなかった思いを晴らしたいという一念で取り組みました。実働250日とすると、1日に40冊ずつ調べなければならないのですから、時間との闘いです。とにかく、働きづめに働いて、最後の1冊を調べ終わったのは、帰国予定の前日の午後4時というギリギリのタイミングでした。

その後、『ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録』は、国際交流基金から国際交流奨励賞という格式ある賞をいただきましたが、当時の苦労がむくわれたと感激したのを覚えています。

イギリス留学時代のリンボウ先生。書誌学者として、日本で果たせなかった思いを異国の地で実現させようという背水の陣での留学だった

本人にもわからない!? 『イギリスはおいしい』が売れた理由

イギリス留学は、『イギリスはおいしい』(平凡社・文春文庫)という作品と、作家デビューという副産物を先生にもたらします。どんなきっかけがあったのですか?


当時、私の勤務先だった東横学園女子短大には栄養士会という団体があって、イギリスの食物事情について帰朝者として講演をしてくれないかと依頼されたのです。そこで私は、どんな話ができるかという「メニュー」を書いて渡しました。

そう、最初はただ話のネタを書き並べただけの、お品書きだったのです。それが『イギリスはおいしい』という本に化けたのは、その講演が「学内の教員に講演料を払うような前例がない」という不可解な理由で立ち消えになったからでした。

そのまま捨ててしまうのはもったいないと、薦められるままに文章にしたものが慶應義塾の大先輩の平田萬里遠さんの目にとまって、何社もの編集部に出版の話をしてくれましたが、どこも断られ、最後に平凡社が出版してくれることになり、その予備段階として『月刊百科』という宣伝雑誌に短期連載したものが、丸谷才一さんの目に留まりなどして、あれよあれよという間に出版に向けて話が進んでいったのです。

『イギリスはおいしい』は、出版と同時にベストセラーになり、今なお重版を続けているロングセラーになりました。なぜ、この本はこれほど多くの人に愛されたのでしょう?


さて、当の本人である私にも、そのあたりの理由はわからないのです。何しろ、当時の私は商業出版の世界では何の実績もなく、まったくの無名の存在でしたから、担当編集者の山口稔喜さんからも「印税は、本が出て1年後くらいに刷った部数分だけお支払いする」という条件を示されて、やっと初版が出ることになりました。
文中のイラストも、外部の挿絵画家などに頼むとお金が余計にかかるからと、私が描くことになりました。青年期に画家を目指してデッサンなど勉強したことが思いもかけずに役にたったわけです。

ですから、編集者にも私にも、あれほど本が支持された理由はわからないのです。不思議といえば不思議ですが、ベストセラーというものは、案外そんなことが多いのです。あの『ピーターラビット』だって、シャーロック・ホームズ物だって、そうだったように。

ともあれ、処女作が売れて作家デビューを果たしたということは、思い通りにいかないことばかりだった私の人生の中でも特筆すべき珍事と言えるでしょう。

専業作家になったきっかけは、『源氏物語』だった

作家デビューの2年後から、東京藝術大学の音楽学部の助教授として日本古典文学を教えていた先生は50歳のとき、定年より18年早く同大学を退職して専業作家になります。勇気のいる決断だったのではないですか?


東京藝術大学は実にいい環境で、学生に古典を教える仕事は楽しかったし、現に教え子たちと今でも交流が続くほど、深い人間関係を築くことができました。芸大教官の仕事は、自分の天職なんじゃないかと思ったこともあります。

でも、週に4日の授業とそのための準備の研究と、作家として出版社の求めに応じて年に5冊くらいのペースで単行本を書くこと、さらには月に多いときは13本も持っていた連載仕事を併行してやろうとすると、寝る時間がなくなってしまうのです。
ちなみに年に5冊というのは、専業作家になってからも変わりませんでしたから、当時の多忙ぶりは熾烈を極めました。

そこで、大学での仕事と、作家の仕事のふたつにひとつを選ぶ必要に迫られたわけです。

先生がそこで、作家の道を選んだのは、なぜですか?


大きな理由のひとつは、『源氏物語』の現代語訳をいつか手掛けてみたいと願っていたことでした。

実は、『イギリスはおいしい』に続けて、『イギリスは愉快だ』、『ホルムヘッドの謎』というイギリス3部作を書いたおかげで、私のことを国文学者ではなく、英米文学者だと誤解する人が世間に多く現れたことは思いがけないことでした。

そこで、3冊目の本には源氏物語について書いた「頭中将は何故泣いたか」と「あばら家の姫たち」というふたつのエッセイを収録して、本来の自分の専門分野をアピールすることにしました。イギリスのネタには限りがあるし、私のほんとうの専門とは無関係な分野だからです。

これらのエッセイには、源氏物語の一節を現代語訳した部分があって、これに目を留めたある出版社の編集者から「現代語訳を書いたらどうですか?」と言われたことがあります。

ただ、源氏物語は54帖にも及ぶ大書ですから、当時、まだ大学教員との兼業だった私には引き受けることのできない仕事でした。そのことが、ずっと胸のしこりとなって残っていました。

幸運の女神には前髪しかない

でも、先生が『謹訳 源氏物語』(全10巻・祥伝社)を手掛けたのは60歳を過ぎてからのことです。専業作家になって10年もかかったのは、なぜですか?


だいたいの計算をしたところ、源氏物語の全巻を訳すには、原稿用紙にして6000枚くらいの分量になるだろうと予想されました。雑誌の連載や講演などの仕事の依頼をすべて断って、かかりきりにやっても2年、あるいは3年間はかかるだろうという分量です。

専業作家になって、教職という定収入を捨てるんですから、まずは経済的に立ち行くことを確実にしなくてはなりません。そのために、まずはなりふり構わず著述に専念して自立し、同時に源氏物語についての研究もしなくてはなりません。それで、10年という年月がかかったのです。

とはいえ、当時私は60歳になっていましたから、出版社にとっても、老境に入った作家に源氏物語の全訳をまかすということのリスクが大きくなっていました。もし私が途中で健康を害して未完に終わってしまったら、その出版社は投資した資金を回収できなくなります。

実際、いくつもの出版社にかけあっても、企画が通ることはありませんでした。何社も断られた末に引き受けてくれたのが、祥伝社でした。「創業40周年記念出版として世に送り出しましょう。お好きなように書いてください」と、何の条件もつけずにゴーサインを出してくれた祥伝社に私は大きな恩義を感じ、その大役を何としても果たすことを誓いました。

『謹訳 源氏物語』は、先生の国文学者としての厳密な解釈と、作家としての力量を活かした読みやすく美しい文章が見事にミックスした名作だと思います。どのようにしてその難事業に取り組んだのですか?


この仕事がいかにむずかしく、大変なものだったかは、当初2年で書き上げたいと目論んでいたのをオーバーして3年8カ月を要したことでもよくわかります。

途中、持病のぜんそくや狭心症の発作を起こして、ほんとうに命が持つだろうかと心配したこともありました。文字通り、命がけの仕事だったわけです。それだけに、最後の一行を訳し終えたときは、感慨深かったですね。

『謹訳 源氏物語』は、2010年に文庫化する際にさらなる改訂をして、今はその改訂新修版が世に出されています。

先生のおっしゃるように、人生は思い通りにいかないものかもしれません。でも、源氏物語の訳業は、先生がひたすらに一念を通して成し遂げられた、思い通りのライフワークになったのではないですか?


西洋には、「幸運の女神には前髪しかない」という言葉があります。後ろ髪をつかむことはできないのだから、前髪が見えたらすぐにそれをつかめという教訓です。

人生を振り返るにつれ、どれほどの偶然、どれほどの幸運がピタリと重なりあっていたかを思い知らされます。イギリスに留学をしなかったら、私は間違いなく作家になどなっていなかったでしょうし、定年前に大学を退職して専業作家になっていなかったら、源氏物語の訳業に手をつけることもなかったでしょう。

人生は思い通りにいかないのは確かなことですが、あとから振り返ってみれば、本人の意志というものがしっかりとそこに刻み込まれていることがわかります。
人生って、ほんとうに不思議なものですね。

興味深いお話をありがとうございました。後編では、最新刊『定年後の作法』(ちくま新書)の内容にからめて、「人生の片づけ方」について語っていただくことにしましょう。

後編記事はこちら→ リンボウ先生インタビュー(後編)「後ろから迫ってくる死」の迎え方

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林望・著『定年後の作法』(ちくま新書)

林望・著『定年後の作法』書影
  • 著者:林望
  • 出版社:筑摩書房
  • 発売日:2020年12月7日
  • 定価:924円(税込)

まだ老いていないから元気。
しかも会社にいかなくてもよいから疲れることもそんなにない。
でもその力の使いどころを間違えると、悲しい定年後を過ごすことになってしまう。
話が長かったり、過去の栄光にしがみついたり、下手の横好きにお金をかけたりすると、
まわりから嫌がられるに違いない。
そんなことにならないために、自分を律し、先を見据えた生き方を学ぶ必要がある。
人生百年時代に必須の一冊。
筑摩書房 定年後の作法 / 林 望 著

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取材・文=内藤孝宏(ボブ内藤)
撮影=宮沢豪

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