かっこよい人

関根勤に聞く!【前編】「芸能界一嫌われない男」はかつて、「芸能界一嫌われた男」だった!

2024年で芸能生活50周年をむかえる関根勤さん(70歳)が痛快エッセイ『関根勤の嫌われない法則』(扶桑社)を上梓した。
「関根さんの悪口を聞いたことがない」
「関根さんを嫌いな人は芸能界にひとりもいない」
と言われ、その好感度の高さから共演者やスタッフからの信頼も篤い関根さん。
番組の起ちあげからレギュラーメンバーに起用されることも多いという。
だが、この本を読んでみるとデビュー当時、「ラビット関根」を名乗っていたころの関根さんは「カマキリ男」に代表されるクドい芸でお茶の間の嫌われ者になっていたという。
そんな関根さんがいかにして現在の「嫌われない男」に成長していったのか?
デビューから現在に至る紆余曲折について、話を聞いてみよう。
人間関係で悩んでいる人、毎日明るく生きていきたい人、必読のインタビューだ!

記事は前編と後編に分けて公開します。

関根勤(せきね・つとむ)
1953年8月21日、東京都港区生まれ。お笑いタレント、コメディアン、俳優、歌手、司会者。旧芸名はラビット関根。娘はタレントの関根麻里。1974年、TBS『ぎんざNOW!』の「しろうとコメディアン道場」で初代チャンピオンとなって芸能界デビュー。以来50年、数多くのバラエティ番組や舞台、ラジオなどで活躍。好感度の高い普段の姿とは別に、1989年から自ら主宰する劇団『カンコンキンシアター』ではナンセンスな「裏関根」の顔も見せている。
目次

シロウト大学生のまま
デビューしちゃった僕の悲喜こもごも

2024年に芸能生活50周年をむかえる関根さんですが、ほかにもモンチッチやハローキティといったキャラクターや、俳優の松平健さんも関根さんと同様、50周年アニバーサリーなんだそうです。

関根
へぇ~、そうなんですか! そういえばこの間、高見沢俊彦さんにお会いしたんだけど、THE ALFEEも今年でデビュー50周年なんだってね。

僕自身、この50年間をふり返ってみると、「運がよかった」という言葉がまっ先に浮かんできます。何より、多くの人との出会いが僕をここまで連れてきてくれた。そういう感慨があります。

デビューのきっかけをくれた浅井企画の初代社長の浅井良二さん、それから同じ事務所に所属して苦楽をともにした小堺一機くん、そして、僕ら二人の永遠の師匠である萩本欽一さん。この人たちとの出会いがなかったら、今の僕は間違いなくなかったでしょうね。

「同僚」とも言える、出演者やスタッフとの出会いにも恵まれました。
僕は東京出身だけど、関西から(明石家)さんまさんが30歳前後に東京にやってきたときは心強い思いがしたし、『笑っていいとも!』(フジテレビ)や『ジャングルTV』(毎日放送)といった番組でご一緒したタモリさんとも、30年以上にわたる長いお付き合いをさせていただいてます。

そのほか、数えあげていけばキリがないほど、多くの人との出会いに僕は支えられてきたんだなぁと感じます。

今、芸人を志す若者には、吉本興行ならNSC、ワタナベエンターテインメントならWCS、人力舎ならJCAという具合に芸能事務所ごとの「養成所」があって、プロの芸人になる道が開かれていますが、今から50年前の1974年、そのような門戸はありませんでした。そんななか、なぜ関根さんは芸能界デビューできたのでしょう?

関根
当時、芸人になるには、師匠に弟子入りをして、師匠と生活をともにしながら下積み生活をおくって、芸を磨いてプロの道へ進むというのがもっともオーソドックスな手段でした。

さんまさんも高校3年のとき、笑福亭松之助師匠に弟子入りして、その後、紆余曲折を経て「明石家さんま」としてデビューしてますよね。

だから、僕のデビューは、当時の常識からしたら、だいぶイレギュラーなんです。
TBSテレビの『ぎんざNOW!』という番組があって、そのなかの「しろうとコメディアン道場」というコーナーに出演して、芸能事務所「浅井企画」の浅井良二社長にスカウトされたんです。

「しろうとコメディアン道場」は、視聴者がカメラの前で持ちネタを披露して、5週連続で勝ち抜くとチャンピオンとしてプロの仲間入りを果たすというシステムなんですね?

関根
最初は勝ち抜きではなくて、その日に出演した3組のメンバーのなかから1番おもしろかった人を決めるという、シンプルなルールでした。

そのコーナーが勝ち抜き形式になるきっかけを作ったのは、実は僕なんです。

オーディションを受けたとき、僕は大学3年生。「ジャイアント馬場対フリッツフォン・エリックの3本勝負」とか、「タイガーマスク対アントニオ猪木」とか、中学2年生のころからクラスメイトを笑わすために仕込んだモノマネ芸は山ほどありました。

それらの持ちネタのすべてを、そのオーディションで披露したんです。ネタ見せの順番は、僕が最後だったので審査員も止めようとしなかったんですね。おそらく、45分くらいは全力でやりきったんじゃないかなぁ。

あとで聞いてみると、それを見ていたプロデューサーが「あの大学生はたくさんネタを持っているから、勝ち抜き形式にしよう」と思いついたんだそうです。

僕としては1回限りではなく、勝ち抜けば大好きなテレビに5回も出られるんだから渡りに船です。その後、順調に勝ち進んで、審査員席に座っていた浅井社長の目に留まったというわけです。

なぜ、そんなにたくさんの持ちネタがあったんですか?

関根
中学2年生のとき、クラスに林くんという仲のいい友だちがいまして、彼を笑わすためにネタを作り始めたんです。もちろん、将来はプロの芸人になりたいという志も何もなく、ただクラスメイトに笑ってもらうために始めたことです。

毎週日曜には当時大人気だった『大正テレビ寄席』(テレビ朝日系)をチェックして、声帯模写が得意な芸人さんのネタの研究から始めました。今でもよくリクエストされる千葉真一さんのモノマネは、そのころにできたネタです。

大学生になると、林くんが連れてきたお笑い好きの仲間3人と「目黒五人衆」というグループを結成して、会館を借りて100人以上のお客さんを満席にするお笑いライブを開いたりするようになっていました。

『ぎんざNOW!』のオーディションを受けたのは、「目黒五人衆」のメンバーが就職活動を始めて解散ということになり、もうひとつ、思い出になるようなことをしたいと考えたからです。

プロの芸人になろうという気持ちでは、なかったんですね?

関根
もちろんです。だから、浅井社長に「君ならプロになれるよ! ウチはコント55号をスターにした事務所なんだから大丈夫」と太鼓判を押されても、正直なところ半信半疑でした。

当時の僕は将来について、父と同じ消防士になるんだろうなぁと漠然と考えていたんですが、「30歳までやって売れなかったらやめればいいや」くらいの軽い気持ちで芸能界の門を叩くことになるわけです。

「カマキリ男」のクドい演技で
世間に嫌悪感を与えていたデビュー時代

で、「プロの芸人になれた」という手応えは、すぐにありましたか?

関根
とんでもない! 『ぎんざNOW!』のレギュラーメンバーになって、司会のせんだみつおさんのアシスタントになったものの、師匠について修業したことのない僕は、気持ちの上では素人大学生のままでした。

テレビの画面を通じて観ていた人たちに囲まれ、スタッフまで全員が年上。そんなすごい世界にいきなり放りこまれて、ひたすらビビリまくってました。

『ぎんざNOW!』の「しろうとコメディアン道場」は、ハンダースや竹中直人さん、小堺一機さん、柳沢慎吾さんといった優れた人材を輩出していますが、初代チャンピオンだった当時の関根さんは孤立した状態だったわけですね?

関根
その通りです。一回、一回の本番の収録が、僕にとっては修業の場。もう、アウェーに次ぐアウェーの場です。お笑いの世界でそんな形でデビューしたのは、後にも先にも僕が初めてだったんじゃないかな。

デビューから3年後の1977年、関根さんは『カックラキン大放送!!』(日本テレビ系)に起用されます。今では好感度の高いタレントとして知られている関根さんですが、この番組で「カマキリ拳法」というシュールな芸を披露していた関根さんは、多くの人を不快にさせていたそうですね?

関根
こっちは素人ながら、なんとか爪痕を残さなきゃとアセって全力で演じていたのが裏目に出たんですね。

数十年後、親しくしている放送作家やライターさんに「ラビット関根を名乗っていたころの関根さんは、気持ち悪くてキライでした」と言われたときはショックでね。

結果として、僕はカックラキンに10年間出演して、カマキリ男を演じ続けたわけですが、当時の僕を知る多くの人から何度も同じようなことを言われました。
「カマキリ男が好きでした」という声を聞いたことがない。

あるアイドルに本番前の控え室で話しかけたとき、「関根さんって、普通に会話ができる人なんですね。私はもっと、怖い人だと思っていました」と言われたときは、さらにショックでね。だって、不快感とか嫌悪感だけじゃなくて、恐怖感も与えていたなんて、自分でも信じたくないじゃない。

クドい芸で嫌われていたのに
なぜ、僕は炎上しなかったのか?

でも、そんなに嫌われていて、なぜ8年間も『カックラキン大放送!!』にレギュラー出演できたのでしょう?

関根
それはズバリ、「そういう時代だった」ということに尽きます。

SNS全盛の今なら、当時の僕はまっ先に槍玉にあげられて炎上騒ぎを起こしていたでしょう。ただ、SNSのなかったあのころ、番組にクレームを入れるには今以上の手間がかかったんです。

電話をするにも、携帯電話なんかありません。確か当時は、せいぜいダイヤル式の固定式電話にプッシュホンが加わったばかりだったんじゃないかな。

そんな時代、僕に文句を言うためには、まず番組を放送している日本テレビの7ケタの電話番号を調べなきゃなりません。

電話がつながったとしても、最初に話ができるのはオペレータの女性です。
「ラビット関根がよぉ、気持ち悪いんだよ。あんなやつ、テレビに出すなよ」と言いかけても、「少々お待ちください。番組のデスクにおつなぎします」とさえぎられて、保留音の音楽を聴かされちゃうんです。
♪タリラリララ~ って、オリーブの首飾りみたいな耳心地のいい音楽をね。

ようやくデスクが電話に出て、さっきの文句を口走ったとしても、話を聞いたデスクは慇懃な口調で「貴重なご意見、ありがとうございました」と言ってガチャリと電話を切る。

それで終わり。スタッフにも僕の耳にも視聴者のクレームは届かないんです。

番組の出演者やスタッフの人たちには、嫌われていなかったんですか?

関根
それが、視聴者の反応とは正反対で、「勤くん、今日もおもしろかったよ」って声をかけられるほど好評だったんです。

先日、番組のVTRを見返す機会があって、その理由がよくわかりました。
カックラキンは堺正章さんをはじめ、坂上二郎さん、研ナオコさん、野口五郎さんといった大スターが勢ぞろいの番組です。そんな人たちに、「汚れ役」のような役をやらせるわけにはいきません。その替わりとして選ばれたのが、素人芸しか武器のない僕だったというわけ。誰がやっても得にならない役を、僕が一手に引き受けていた。

それから、番組の視聴率がつねによかった、というのも一因かもしれません。視聴率が悪くなると、「どこが悪かったんだ?」と反省するものですが、番組の人気がつねに高かったから、そういう機会はほとんどありませんでした。
その結果、僕の毒とアクに満ちたヌメリ芸が修正されることなく、野放しにされてきた。当時の僕が「サバ」だったとすると、臭みを消すネギやショウガを添え忘れたため、すっかり発酵して、異臭をはなつ存在になっていたんですね。本人が気づかない間に。

さわやかで才能あふれる小堺くんが
僕の毒とアクを中和してくれた

毒気とヌメリに満ちた当時の関根さんの芸風はその後、どのようにしてアク抜きされていくのでしょう?

関根
それについては、ふたりの恩人がいます。小堺一機くんと萩本欽一さん。

2歳年下の小堺くんは僕と同じく、『ぎんざNOW!』の「しろうとコメディアン道場」で5週勝ち抜いて17代目のチャンピオンになった人。彼と初めて会ったときのことは、今もよく覚えています。

『ぎんざNOW!』の僕の楽屋にあいさつに来た小堺くんは、「僕も関根さんみたいなプロになりたいです。どういうことに気をつければいいですか?」ってアドバイスをあおいできたんです。

小堺くんによれば、僕はそのとき「下積みがなくてプロになるのってツラいよ。だから、何事も真剣に取り組んだほうがいい」と言ったそうです。彼は、いろんな人に同じようなことを聞いたそうなんだけど、ほとんどの人が「ああ、頑張れよ」と適当にあしらうなか、僕だけが親身になって話してくれたっていうんです。

僕にしてみれば、当時は本当に下積みなしでプロの現場に立たされる苦労を身に沁みて感じていたころでした。
だから、小堺くんの顔を見たとき、素直な言葉が出てきたんでしょう。

小堺さんとはその後、コンビを組んで苦楽をともにする仲になりますね?

関根
そのきっかけを与えてくれたのが、事務所の大先輩の萩本欽一さんのこんなアドバイスでした。

「オレは浅草の舞台で修業をして、軽演劇の基礎を身につけてから(坂上)二郎さんと組んだ。だから、すぐに上に行けた。だけどキミたちは、まだ芸が完成していないうちにテレビに出ちゃった。今からでも遅くないから1回、舞台にもぐりなさい」と。

その言いつけ通り、僕らは1年間、週イチで下北沢のスーパーマーケットというライブハウスでコントを披露する、「やり直し修業」の生活を始めることになりました。

「下積みなしでプロになるのってツラいよ」とアドバイスした先輩の僕が、自分と一緒に下積みのやり直しをさせられてるのを見て、小堺くんはどう思ったでしょうね?

今の人には想像できないかもしれないけど、当時の小堺くんは「お笑い界の藤井フミヤ」と言われるほどかわいくてさわやかなルックスでね。頭の回転も速く、彼の横に立つとテンポのいいしゃべりで僕のクドくてアクの強い芸風がイッキに中和されていくような気がしました。

欽ちゃんが僕に授けてくれた「95万円」の教え

その結果、関根さんは29歳になった1982年、『欽どこ』の通称でおなじみの『欽ちゃんのどこまでやるの!』(テレビ朝日系)のレギュラーメンバーに起用され、小堺さんと「クロ子とグレ子」というコンビとして活躍することになりますね?

関根
だけどね、『欽どこ』デビューは僕より小堺くんのほうが10カ月くらい、早かったんです。

萩本さんには初対面のころから、「関根の笑いはわからない。なんか嫌い」と拒否されて、あいさつしても返事すらしてもらえない状態でした。

だけど、当時の萩本さんは、担当するレギュラー番組の視聴率を足すと100%なるという、「視聴率100%男」と呼ばれた伝説の人でしたから、事務所も僕をスカウトした手前、なんとか番組に使ってもらおうとご自宅にうかがって会う機会を設けてくれたんです。

萩本さんとは、事務所がセッティングしてくれないと会えないくらいの距離感だったんですか。

関根
そうですよ。しかも、萩本さんは話の途中で突然、「ハイ、時代劇のヤクザの出入り」って、アドリブ芝居のテストを仕掛けてくるんです。

ちなみにそのとき、僕がどんな演技をしたかというと、懐の刀をサヤから出して、大上段にかまえながら「てめぇ、コノヤロウ。か、かかってきやがれ……」と腰の引けた状態で全身をブルブル振るわせる演技をしました。

すると萩本さんは、「ハイ、60点」と即座に点数をつけるんです。いや、小堺くんはこのときの点数を40点と覚えているらしいんだけど、どっちが本当だったかなぁ……(笑)。

でも、採点後のアドバイスを聞くと、納得させられちゃうんですよ。
「刀を全部抜く必要はないだろ? 精いっぱい虚勢を張りながら、刀を抜く手をブルブル震わせるだけで、ビビってる様子は充分、伝わるじゃないか」って。
こっちはもう、「へぇ~」ってうなるしかない。

浅草で軽演劇の基礎を叩き込んだプロの芸と、素人芸との差を思い知らされたわけですね?

関根
まったくその通りです。

下北沢のライブハウスでは、小堺くんの巧みなツッコミに頼りきりで、僕は「電車で中吊り広告のコピーを大声で叫び続ける男」みたいな変な人物を演じることに全力をかけていました。カックラキンの「カマキリ男」の手法をさらにエスカレートさせて、どんどんオーバーアクトな演技になっていたんですね。

そう考えてみると、萩本さんが僕より10カ月も早く、小堺くんを下北沢のライブハウスからテレビに引きあげたのは当然の判断だったのかもしれません。

ある日、そんな僕に、萩本さんは適確なアドバイスをしてくれました。
「お前はね、100万円の札束を持って、どうだ、オレはこんな大金を持ってるんだぞ! って、有り金全部を見せようとしているの。そうじゃないの。そうじゃなくて、5万円だけ見せて、残りの95万円はポケットに隠し持ってる。そういう気持ちでやりなさい」と。

小堺くんの場合、ただ隣に立つだけで僕の芸のアクを中和してくれたのに比べて、萩本さんの場合は中華料理で言う「油通し」に近かったと思います。

中華料理は油っこい印象がありますけど、調理の下準備に具材をササッと油にくぐらせることで野菜の色が鮮やかになったり、食感がよくなったりしますよね。萩本さんは、そんな荒療治で僕の「一部の人にしか刺さらないヌメリ芸」を「全国のお茶の間に伝わる芸」に矯正してくれたんですね。

僕が『欽どこ』で小堺くんと一緒に「クロ子とグレ子」になったのが29歳のとき。浅井企画の浅井社長にスカウトされて、「30歳までやって売れなかったらやめよう」と半信半疑で芸能界入りした僕の気持ちは、30歳のギリギリ手前で何とか区切りをつけることができたわけです。

「関根は40歳からだな」と
欽ちゃんに言われた僕の大器晩成な人生

ところで、小堺さんは関根さんより早く萩本さんに認められただけでなく、28歳という若さでフジテレビのお昼のテレビ番組『ライオンのいただきます』の司会に大抜擢されます。後輩に追い抜かれた立場として、嫉妬を感じるようなことはなかったですか?

関根
いや、嫉妬どころか、ありがたいなとさえ思っていましたよ。

というのも当時、テレビの世界ではB&Bやツービート、紳助・竜介、ザ・ぼんちといった漫才ブームの勢いに乗って出てきた人たちが表舞台を席巻していました。
なかでも関西勢のお笑いが、ものすごい勢いで全国区に広まっていくなか、最初から東京でくすぶっていた僕は肩身の狭い思いをしていたんです。

そんななか、仲間うちから小堺くんが先頭を切って売れてくれたおかげで、僕の迷いはイッキにふっきれました。

例えるならば、碓氷峠(うすいとうげ)のような曲がりくねった細道を歩くなか、小堺くんが走り抜けたポイントごとに、明るいテールランプを灯してくれたようなもの。あたりは濃霧がたちこめていて、視界は充分ではないんだけど、そのランプをたどっていけば上にあがっていくことができる。そのことが、どんなに頼もしかったかったことか。

関根さんの著書『嫌われない法則』によると、萩本さんは小堺さんのほうが先に売れることを予言していたそうですね。

関根
そうです、そうです。萩本さんいわく、「小堺はひとりでもしゃべれるから司会向き。でも、関根はいろんな番組にゲストで出て、何か変なことをやるのが向いている。だから、関根は40歳からだな」と言われました。

確かそれが、32歳のとき。えっ、40歳って、あと8年はくすぶってなきゃならないの? って、軽いショックを受けました。どんだけ大器晩成なんだよ、って。
でも、逆にとらえてみれば、8年頑張っていけばこのまま芸能界から消されずにやっていけるんだ、ってポジティブに考えることにしました。

実際、40歳になってからの関根さんは『さんまのからくりTV』や『ジャングルTV ~タモリの法則~』(ともにTBS系)や『笑っていいとも!』(フジテレビ系)などの番組にレギュラー出演するなど、大活躍していますね?

関根
初期メンバーとして、番組の起ちあげに参加させてもらうようになったことが、何よりうれしかったですね。実際、萩本さんのお宅を訪ねて「大将がおっしゃった通り、僕も40歳から質の高いお仕事にお声がけいただくようになりました」って報告に行きましたもん。

すると、萩本さんはひとこと、「関根は50歳から。本当は50からなの」って言うじゃありませんか。

萩本さんの見立てでは、40歳の僕はまだアク抜きが完成していなかったみたい。
だから、50歳になったときは怖くて報告にいきませんでした。だって、今度は「関根は60歳から」って言われるに決まっているからね。

ただ、僕が60歳になったとき、「関根は若いヤツらと一緒に番組に出ていても違和感ないな」と言われたときはうれしかったですね。

僕の60代というと、『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ)の「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」にレギュラー出演していたり、若手芸人とさまざまな番組で共演するようになった時期と重なります。欽ちゃんは、そんな雑多な番組も、ちゃんと見てくれているんだと思って。

萩本さんには、正式な形で弟子入りしたわけではないんだけど、ずいぶん後になって小堺くんと一緒に「僕らは萩本さんの弟子ということでよろしいでしょうか?」とおうかがいを立てる機会があったんです。
おそるおそる返事を待っていると、「いいよ」って言ってくれました。
だから今は胸を張って、こう言えます。
「萩本欽一は、僕の、掛け替えのない、永遠の師匠です」ってね。

興味深いお話、ありがとうございます。後編のインタビューでは、27年半の長きに渡って続いた人気ラジオ番組『コサキン』シリーズや、自身の劇団「カンコンキンシアター」の誕生秘話などについて、お話をうかがっていきたいと思います。

後編記事はこちら→ 関根勤に聞く!【後編】他を活かし、自を活かす。それが「嫌われない法則」の極意

 

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TBS『ぎんざNOW!』で5週連続勝ち抜いてデビュー。ギラギラした目とアクの強い芸風の「カマキリ男」として名を馳せ、今ではすっかりお茶の間に欠かせない存在となった関根勤さん。
今年で芸歴50周年を迎える彼を語る際に欠かせないのが、芸能界で聞こえてくる評判です。

「関根さんの悪口を聞いたことがない」
「関根さんを嫌いな人は芸能界にひとりもいない」

関根勤さんはなぜ、こんなにも慕われているのか?
生き馬の目を抜くような芸能界で天狗になれなかった理由、腑が煮えくり返るようなことがあっても受け流せた理由。コンプレックスを乗り越えた方法、芸人としてのこだわり。
タモリさん、明石家さんまさん、萩本欽一さんなど大物芸人たちから学んだこと。
そして一人娘であるタレント・関根麻里さんを育て上げた個性的な子育て論、関根勤さんを「ドゥドゥ」と呼ぶ孫たちとの微笑ましい関係……。
麻里さんのコメントも交えながら、関根勤さんの50年の芸人人生を楽しく紐解いていきます。
人間関係で悩んでいる人、毎日明るく生きていきたい人、必読です。

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取材・文=内藤孝宏(ボブ内藤)
撮影=八木虎造

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