祭り写真はその日限りの一発勝負!運が大事、運を招くための努力はもっと大事 写真家・森井禎紹さん
とにかく歩くのが速い。写真家、森井禎紹さんは御年82歳。その健脚ぶりには誰もが驚かされる。その日限りの一発勝負である祭り写真の第一人者である。30年かけて撮影で訪れた祭りは、1,100カ所以上に及ぶ。しかも一度限り、再訪はしない。アマチュア時代にコンテストに入賞すること362回を数える。50歳目前でプロカメラマンに転向し、今も現役で写真を撮り続けている。病気知らず、歯もすべて自分の歯、眼鏡もいらない、入院経験なしという森井禎紹(もり ていじ)さんに、話を伺った。
- 森井禎紹(もりい ていじ)写真家。
1941年兵庫県三田市出身。高校卒業後、神戸市内の一部上場企業に就職。会社勤めの傍ら、1965年頃より趣味で写真を始める。写真コンテスト、カメラ雑誌月例コンテストに応募し、入選回数362回。1990年プロに転向、ライフワークとして日本全国の祭りを撮影。主な写真集に『祭りに乾杯』『祭り旅』『祭り日』などがある。現在、社団法人写真家協会(JPS)会員、一般社団法人二科会写真部名誉会員、兵庫県写真作家協会最高顧問など。
会社の先輩からタダ同然でもらったアサヒペンタックスSV
1960年代の高度経済成長期、中高卒の若者は貴重な若手人材としてもてはやされ「金の卵」と呼ばれていた時代、森禎紹さんが通っていた高校には数多くの求人がきた。早くお金儲けしようと、神戸市内の一部上場企業に就職した。
カメラとの出会いはいつ頃だったんですか?
森井
3,4年ほど勤めていると、どうやら高卒と大卒では昇格に格差がでているように感じたんです。将来のことを考えたら、なにか得意とするものを作らなあかんと思っていた時に、カメラが趣味の先輩がカメラを譲ってくれたんです。中古のアサヒペンタックスSV、一眼レフ、標準レンズ付きでした。
余談だが、アサヒペンタックスSVといえば、ビートルズのポールマッカートニーが使っていたことで有名なカメラだ。それから数か月後、先輩に「須磨浦公園※1)でモデル撮影会があるからいかないか」と誘われた。今まで見たことがないほど美しいモデルにうっとり見とれていた森井さんであるが、「今、シャッター押せ!」と先輩。さらには、撮影位置、露出、シャッタースピードなども丁寧に指導してもらった。このとき、36枚撮り2本を写したそうだ。先輩はそのフィルムを四つ切プリントにして届けてくれた。そのときに撮った写真を先輩に言われるままにコンテストに応募したところ、いきなり特選に入った。タイトルは「若い女(ひと)」。表彰式に行くと、賞金3,000円を渡された。昭和39年(1964年)当時の森井さんの給料は残業代を含めて15,760円、3000円はなかなかの金額であった。
森井
幸か不幸か、最初に応募したコンテストで賞をもらったので、こんなに楽してお金が儲かるんかと思いましたね。すぐに先輩が入っていた会社の写真クラブに入会しました。それから、講師の先生に勧められて町の写真クラブに入ったんです。
この町の写真クラブは、コンテスト入賞率が高いと評判で、全国にその名を轟かせていた。会社勤めの傍ら、コンテストに明け暮れる日々が始まった。給料やボーナスの大半が撮影費用、材料費に消え、新しいカメラを買いたくてもお金の余裕がでるはずもなかった。
※1 須磨浦公園:淡路島を望む傾斜地と海岸沿いの松原から形成された景勝地。桜の名所として知られている。園内には須磨浦山上遊園、隣接する海岸に海釣り公園等の観光施設があり、ハイキングコースとしての利用も多い。
昭和44年、コンテストで得た20万円の賞金
いくつかのコンテストにも入選し、森井さんのカメラ熱は、趣味から道楽へと変わっていった。のめり込むきっかけとなったひとつが信州への撮影旅行だった。
森井
1月4日が初出だったんで、帰り支度をして喫茶店へ仲間と入ったときに、マスターに、お猿さんが温泉に浸かっているところがあると聞いたんです。半信半疑でしたが、とにかく行こうかということになったんですよ。8人のうち5人は帰ったんですが、僕を含めて3人が残りました。今から撮影に行ったら初出に間に合わないんで、大雪で帰れなくなったと会社にウソをついて、翌日、撮影に行ったんです。
猿が温泉に入るという地獄谷温泉へ向かったもののその日は腰まで浸かるほどの大雪であったが、山間の道を1時間半かけて歩いたそうだ。目的地に着くと、猿が肩を寄せ合うようにして温泉に浸かっていた。猿の肩にはびっしり雪が積もっている。寒さで凍ってシャッターが切れず、近くに合った管理小屋のストーブで溶かしながらの撮影だった。
森井
無我夢中で撮ったのを覚えています。
頭にびっしり雪が積もった状態で肩を寄せ合うように温泉に浸かっている猿の写真は、神戸新聞の報道、ニコン、アサヒカメラなど、全国でも指折りのコンテスト等で軒並み入賞した。
さらに、森井さんがプロになろうと決意を固めるきっかけになった思い出深いコンテストがある。カラーテレビが普及しはじめた昭和44年(1969年)頃、DXアンテナの写真コンテストがあると聞きつけた森井さんは、その賞金額に心がときめいた。1席に選ばれれば20万円!かなりの高額賞金である。コンテストのテーマは、DXアンテナのある風景。このとき、森井さんは考えた。ほとんどの人が下から撮るに違いない。それならば…
森井
DXアンテナを自分で買ってきてあっちゃこっちゃに持って行ってDXアンテナを主役にして撮ってみようという演出を考えました。
神戸新聞会館の屋上から夜景を下に入れてカシャ、船上で生活している人のところに置かせてもらってカシャ、そして最後に撮ったのが…
森井
うちの家で撮りました。おやじが薪割をしてて、鶏と牛がいてました。そこに子どもが遊びにきてたところを撮りました。タイトルは「楽しい我が家」にしました。
もちろん、楽しい我が家にはDXアンテナがある。見事、最高賞を獲得し、賞金20万円を獲得した。その頃、結婚したばかりだったが、休日は撮影に没頭。かたっぱしからコンテストに応募し、多くのコンテストで入賞を果たした。
30年かけて全国1,100カ所の祭りを撮り続けた
22歳で写真を始め、プロに転向するまでにコンテストでの入賞は362回。1990年、森井さんは、会社を辞めてプロ写真家としての道を歩みはじめる。プロとしてやっていくには遅いデビューであった。しかし、仕事は次々舞い込んできた。カメラメーカー、フィルムメーカー、カメラ店からの依頼、撮影会の指導やセミナーなど、断らなければらないほど仕事はあったという。海外への撮影ツアーにも講師として参加した。
プロになった時に、ライフワークを作りたいと考え、選んだのが祭りだった。アマチュア時代から生活感のあるスナップ写真を撮り、風景とともに人々の暮らしを切り取ることで、そこに暮らす人々の生活が見えてくる写真を撮り続けてきた。その延長線にあったのがハレの日の祭りだった。以来、30年間かけて撮影した祭りは、1,100カ所。二度と同じ祭りにはいかず、すべて違う場所の祭りを撮り続けた。森井さんの祭りの写真は、人々の情熱や、ほとばしる想いを切り取り、市井の人々の自然な表情、生活が見えてくる。
森井
雨の日には撮れない、同じ日に各地で祭りがあるのでそれのどの祭りを選ぶか苦労しました。祭りの魅力は、春夏秋冬があるということ、千年以上続いてきた歴史が延々と受け継がれてきていること、会社勤めの人が休暇を取ってでも帰ってくる独特の価値観もありますよね。祭りに集う老若男女がその土地独特の衣装、食べ物、方言、生活風習がすべて違うのでそれが面白いですね。僕自身がお祭り男みたいな性格だからねえ。
毎年、撮り続けてきた祭りであるが、2020年から約3年間、それが出来なくなってしまった。コロナ禍だ。
桐ダンスに入っていた白黒写真のフィルムから生まれた写真集『我が昭和の写跡』
森井さんがプロになったとき、3年に一度は写真集を出すことをひとつの目標にしていた。そして、その目標を達成し続けてきた。2019年に写真集を出した森井さんは、本来なら2022年に祭りの写真を出すはずだったのだが、コロナ禍で全国の祭りが中止になり撮ることはかなわなかった。
森井
祭りの写真が撮れないので、家で古い写真の整理をしたんです。すると、山ほどある写真の中から昔撮った白黒のフィルムがでてきたんです。5ミリほど埃が積もってましたわ。
処分しようとゴミ袋に入れようと思ったが、カラー写真はカビだらけだったのに白黒写真だけカビが生えていなかった。白黒写真だけは桐ダンスに入れていたため湿気が入らなかったのだ。そこには、二度と撮ることができない昭和の人々の生活があった。
森井
今、こんな写真は撮れっこないと思い、2023年に『我が昭和の写跡』を出したんです。次は2026年です。祭りは足で稼がないといけない、階段をかけあがったりするのは、ちょっとしんどいので、今度は”兵庫の絶景”を撮り始めました。写真集にするために140カ所くらいは撮影しようと思っています。
今まで意識して撮影してこなかった風景写真である。すでに90カ所の撮影を終えたという。苦労しているのは、冬しか撮れない新舞子の干潟。朝の干潮時と日の出がマッチするのは、1カ月に1度しかないため、1月に撮れなければ2月まで待たないといけない。竹田城の雲海もそうだ。いつ雲海が見られるか予測が難しい。自然を相手に苦労するところだ。
森井
写真の技術はもちろん必要ですが、写真で大事なのは運です。運に見放されたらダメです。その運を引き寄せるために努力をしてきました。人生目標を持たないと生きがいも失ってしまいます。それではいかんので、兵庫の絶景を撮ろうと目標を決めました。14冊目となる人生最後の写真集にするつもりです。
そういう森井さんであるが、人生最後の写真集にはなりそうにない。歯もすべて自分の歯だ。カニの足も歯でバリバリとかじって剥く。眼鏡も必要がない。歩くのも早い。健康には特に気を付けていないとはいうが、1日8,000歩近く歩いているという。
森井
写真の世界はまずは作品を作らないとあかん。文章も書かないといけない。写真を撮るためには動かないといけない。動いていると何もくよくよしなくなりましたね。思いついたらまず行動です。
努力は運に結び付くと、森井さん。新たな目標を持ち続け、常に前進し続けている。