「100歳まであと4年。わけはないよ(笑)」 内海桂子さんインタビュー(前編)
内海桂子、数え年で96歳。
16歳で漫才の初舞台を踏んでから、まもなく80年。
「100歳まで、あと4年。わけはない」とおっしゃる現役最高齢の芸人で、その 矍鑠 ※1たる姿は、みなさんご存じのとおり。
「え? その芸を知っているかって?」
おそらく読者のみなさんには、リアルタイムで「内海桂子・好江」の漫才を知らない世代もいらっしゃるかもしれない。
けれども、SNS時代の今、桂子さんの言葉はほぼ毎日タイムラインに流れてくる。
そう、桂子さんのツイッターはとんでもなくおもしろいのである。
ワハハ! と単純に笑う“おもしろさ”というのではなく、これまでの経験があるからこその機智 ※2と、世間や政治への進言、なにより言葉の豊かさに魅了される人が続出で、フォロワー数は444,710人(*2018年3月13日現在)。
なんと45万人とはすごすぎる!
桂子さん本来の“芸”を知らずとも、ツイッターから桂子さんを知り、どんどんファンが誕生している今、あらためて桂子さんの人生とは?
前編と後編の2回に分けてお届けいたします!
※1矍鑠=年を取っても丈夫で元気なさま。
※2機智=その場その場に応じて活発に働く才知。ウイット
- 内海桂子(うつみ けいこ)
1922年、両親の駆け落ち先である千葉県銚子市に生まれ、浅草、南千住で幼少期を過ごす。12歳ごろから踊りと三味線を習い、1938年、16歳で漫才の初舞台に立つ。1950年、14歳歳下の好江さんとコンビ「内海桂子・好江」を結成。歯切れのいい“東京漫才”の女性コンビとして活躍。1958年「NHK漫才コンクール」優勝、芸術祭奨励賞、芸術選奨文部大臣賞、紫綬褒章など受賞歴多数。1998年、漫才協団会長に就任、現在、漫才協会名誉会長。
公私ともに
パートナーは24歳年下。
「あたしが100になったら、お前さん、いくつ?」
そう尋ねるのは内海桂子さん。
尋ねられたのは夫であり、マネージャーでもある成田常也氏だ。
ふたりは同じ戌年、年女に年男。年齢差は24歳、つまりちょうど、ふたまわりの差。
馴れ初めの詳細は後述するとして……
桂子さんが68歳、成田さんが44歳のときに同棲スタート、77歳、53歳で結婚式を挙げ、公私ともにパートナーとして30年弱も過ごしてきた。
軽妙洒脱※3で矍鑠しているとはいえ、桂子さんは今年96歳。
「師匠はなんでもひとりでできちゃう」けれども、成田さんは、このインタビュー中に、すっとさり気なく師匠をフォローし、不慣れな、われわれスタッフを援護射撃してくださる。
そんな成田さんと桂子さんとのやりとりをチラリご紹介すると……
舞台後の打ち上げ中、成田さんが「今日もおきれいですね、師匠」と、桂子さんに耳打ちをすると、桂子さんは「なに言ってんのよ。しょうがないわね」とかわす。
はたまた、成田さんが、「こんなに若いのと一緒にいるのはラッキーですよね?」と桂子さんに聞くと、「あたしのわかんないこと、わかるからいいのよ。世話も焼いてくれる」と返す、桂子さん。
おふたりのやりとりはなんとも微笑ましく、「24歳も年下の男性と結婚しちゃうなんてすごいなぁ、桂子師匠、やるなぁ!」と思わされるのだ。
大正11年(1922)に生まれ、物心ついたときから“お助け人生”を歩んできた桂子さん。まずはその生い立ちから振り返ってみよう。
※3軽妙洒脱=軽やかでしゃれていること。
数え年10歳で
親を助けるべく奉公に。
桂子
おふくろが駆け落ちした先で生まれました。大正11年(1922)のことです。駆け落ち先が千葉県の銚子で、おふくろが二十歳のときのこと。
おふくろは本所(墨田区)の床屋の跡取り娘でね。あたしの父親は、床屋のはす向かいで籐問屋※6の孫息子でした。
男前で職人としての腕もよかったのに、博打が好きでねぇ。駆け落ちをしたくらい惚れ合っていたのに、遊びが元でおふくろは私を連れて東京に戻ったんです。
※6籐問屋=籐(ツル性の植物)でつくられたカゴやザル、すだれを扱う問屋のこと。
なんだかんだと桂子さん親子は元の鞘に戻り、港区芝の魚屋さんに住み込みで働くことに。ここの支店が江東区大島にできて、家族は大島で暮らすようになった。
だが、桂子さんが、一歳の誕生日を迎える数日前、関東大震災が起こってしまう。
一家は親戚を頼って千葉の木下へ。
一旦落ち着いたと思ったのも束の間、父は「仕事を探しに行く」と東京に出たまま行方知れず。身を寄せた親戚筋には親切にしてもらったものの、「やっかいになりっぱなしではいけない」と、母も桂子さんを連れて東京に。
そして……
母は、ふたりめとなる夫と結婚した。
世田谷区の太子堂に暮らし、桂子さんは昭和4年(1929)の春に尋常小学校に入学する。だが、穏やかな日々は続かず、太子堂を出た母娘は、浅草の祖父の家に住むようになった。
桂子
ところが、床屋の職人で、腕のいい“松つぁん”とおふくろの間に子どもができてね。
それが、あたしにとって三人めの父親になるんですが、まあ、ここから、あたしの「人助け人生」がはじまった。
おふくろと“松つぁん”が所帯を持ちたいとなって。あたしが手頃な家を見つけてきてね。家賃は8円でよかったけれど、敷金は20円もかかる。
うちにそんなお金があるわけがない。
だから誰に言われたわけでなく、あたしが自ら進んで「奉公に行くよ」となったんです。
数え年で10歳、小学校3年生のときです。まだ小さい子どもでしたが、助けてあげなくちゃ、と思ったんですよ。
これがはじめての人助けで、そのときから今までずっと働いていますが、それって、自分の欲望のためじゃないんですよ。稼いだお金で贅沢したいとかじゃなくて、まわりを助けるために働いているの。
奉公先は「神田錦町 更科」だった。
明治2年(1869)創業、現在は四代目と五代目が切り盛りする老舗蕎麦屋だ。
桂子さんが奉公に入ったときは、現在よりももっともっと広く、たくさんの小僧さんがいた大店だったという。
桂子
坊ちゃんのね、子守奉公として雇われて。あたしが10歳で坊ちゃんが7歳。子どもが子どものお守りをしている。
子守といっても主なことは小学校への送り迎えでね。学校が終わるのを校門で待っているときにさ、「あたいも学校行きたいなぁ」って悲しくなったわよ。だって、あたし、小学校に3年しか通っていないんだもの。
歳がそれほど変わらないから、遊び相手でもあったしね。あたしの本名は「よしこ(良子)」だから、「よしや、よしや」ってみんなから呼ばれて。
で、あるとき、遊んでいたら、坊ちゃんが木刀みたいなので、あたしのおでこをピターンと叩いてきた。
それが、番頭さんからご主人に伝わって、「女の子に怪我をさせてしまった、申しわけない」と、5年奉公の約束だったんだけれど、1年で終わっちゃった。
でもね、5年分の奉公費の20円は返さなくていい、って。いい人たちでしょ。本当にいいお店だったんです。
“坊ちゃん”こと堀井松太郎さんは三代目。5年前に亡くなられているが、晩年まで桂子さんとの付き合いがあり、平成8年(1996)、勲四等宝冠賞受賞のお祝いには、お孫さんと駆けつけてくださったそうだ。
さて、桂子さんが奉公先から家に戻ると……
桂子
おふくろがね、三味線を習えと言うのよ。あの当時、下町の娘は三味線ぐらい嗜んでいるもので、おふくろもできるから、あたしもボチボチやらないと、って。
踊りも習いに行って。ええ、月謝はちゃんと自分で払っていましたよ。
でね、そうこうするうち、「あの娘は三味線が弾ける、踊りもできる」と知った芸人に声をかけられて、ドサ廻り(地方巡業)の興行に加わることになった。
わずか13歳。
最初の子守奉公もそうだが、この地方巡業も、“親と家を助ける”という考えがあってこそ。この時代、子が親を助けるのは当たり前。落語の世界にもたびたび登場するように、子が奉公に出るのは普通のこと。昔の子どもは親の事情も世間のこともよくわかっていたのだ。
だから、年端もいかない桂子さんがドサ廻りで働かされてもおかしくないことで。
とはいえ、いきなり舞台に上がるわけでなし。
宣伝のためのビラをつくって配ったり、舞台の袖で漫才を見ているうちに……
桂子
「あたしだったら、もっと気の利いたこと言えるのに」ってね。あたしは“利かん坊”だったし、機転がきくからね。
あのころの夫婦漫才は、奥さんが三味線を弾き、「はいはい、そうですか」という相槌を打つしかなかったのよ。そんなの、つまんないわよね。
そうこうするうち、ある漫才師に「相方になってほしい」と請われる。漫才師の名は高砂屋とし松といい、その相方である妻が身重※7になったためのピンチヒッターであった。
初舞台は16歳、浅草の橘館(国際通りにあった演芸場でもうとっくに閉館)で、芸名は「雀家〆子」となった。
三味線を弾けることはもとより、「あたしならこうするのに」といったアイデア、なにより物怖じしない性格もあって、桂子さんのほうからネタをふったり、ツッこんだりと、従来の漫才にはない芸風が受けに受けた。
当時のサラリーマンの月給が20円で、桂子さんは35円。なかなかの高給取りだった桂子さんだが、これは昼間の舞台分。のちに、夜の分の手当を相方にちょろまかされていることに気づくが、それについては、もう過ぎたこととして受け止める。“お助け人生”の桂子さんを象徴するようなエピソードだ。
※7身重=妊娠していること。
戦中戦後の混乱期、
波乱万丈な出来事目白押し
高砂屋とし松とのコンビは順調で、複数の演芸場から声がかかるほどに。
桂子さんは、義父(松つぁん)と「地方巡業はNGの約束」をしていたものの、人気が出てしまえばそうも言っていられない。巡業に出れば、芸人は劇場に泊まる。寝泊まりのスペースが男性、女性と分かれているわけもなく、コンビはコンビで同じ部屋である。
そういった環境のせいもあって……洗濯物などは女性がやり、舞台の上だけでなく、あれやこれやと世話を焼くうち、
桂子
“お手つき”になっちゃったのよ、とし松の。そう、妊娠。相手を好きとか嫌いとじゃないの。男と女のことなんてなんにもわからなかったから。だって19歳だもの。
自分でもどうしていいかわからず、人にも相談できず、悩んだけれども、ひとりで産むことに。
妊娠したとはいえ、休んでいては桂子さん一家はもとより、とし松一家も行き詰る。ということで妊娠8カ月まで舞台に立ち続け、無事に長男を出産。
「そろそろ舞台に復帰しようか」と考えていると……
桂子
とし松の奥さんがうちに乗り込んできて、「子どもまで生んで、亭主を奪った」と責められてね。うちのおふくろが「だまされたのはこっちだ。ひとまわりも年上のとし松に手をつけられ、子までつくらされた」って。
そういうやりとりを見ていたら、なんだかバカバカしくなってコンビを解消。雀家〆子の芸名を返上しました。
そして、桂子さんは「三枡家好子」を名乗ることに。“遊芸鑑札許可”を取り、さまざまな相方と組み、漫才をこなしていった。
戦時色が非常に強くなった時代である。遊芸鑑札とは、お上(警察や行政)の許可のことで、これがないと舞台に上がることができなかったのだ。
この札を持って、桂子さんは「三枡家好子」として戦地慰問に行く。昭和18年(1943)に満州、翌年には河北省に、そのあとまた軍隊慰問で万里の長城などをまわったという。
桂子
一度めの慰問から日本に戻ってくると、今度は「林家染芳さんとコンビを組んでくれ」と頼まれてね。染芳の相方はこれまた奥さんで、病気療養中だったんです。
二度めの軍隊慰問は染芳さんと一緒でね。そのあと、奥さんが亡くなって、師匠筋に「染芳さんと結婚したらどうだ」とすすめられて。
で、長女・道子が生まれました、昭和21年(1946)1月13日のことでした。
染芳の本籍は広島の呉で、そこに届けを出したのだけれど、戦中、戦後のゴタゴタでじつは受理されていなかった。だから、あたしも未婚のまま。娘にいたっては、高校生になるまで戸籍がなかったのよ。
でも、小学校、中学校と入学の案内は届いて、ちゃんと通っていました。あのころ、お上からお達しがくるんじゃなくて、町会からだから、戸籍がどうのこうのっていう細かいことは関係なかったのね。
そして敗戦。
漫才の仕事がなくなると、染芳さんは元来好きだった博打にのめり込む。さらには、ヒロポン※8に夢中になった。
当然、お金を稼ぐことはできず、桂子さんがふたりの子と旦那のために働かねばならない。
そのころ、戦地から復員してきた従兄弟が“焼き団子”を大量に持ってきて、「これを売ってくれないか」と持ちかけてきた。
※8ヒロポン=覚せい剤の一種。このころはお金を出せば誰でも入手できた。
桂子
従兄弟は、煎餅屋の職人だったんですが、統制品ではお煎餅はつくれなかった。そこで焼き団子となったわけ。
そこでまた、“お助け”がはじまるんですが、あれこれ考えて、吉原のおねえさんたちに売り込んでね。まがいものが多いなか、お米100%だからおいしかったのでよく売れました。団子だけでなく、海苔巻、いなり寿司と商品を増やして、おもしろいように儲かった。
吉原のお店の人が、「お寿司のおばさんが来たわよー」とおねえさん方に声をかけてくれるの。すると、そこにいるお客さん方が、“おねえさんによく思われたい、気に入られたい”とう下心で買ってくれた。
いつの時代も、男は女のおねだりに弱いのよ
だが、喜んでばかりもいられない。
桂子さんが稼げば稼ぐほど、染芳さんは働かず麻雀ばかり。戦後のインフレで、次々にお汁粉屋さんや餅菓子屋さんができてきて「吉原での商売は潮時かな」と考えるようになったそう。
そして、「キャバレーの女給※9さん募集」の貼り紙を見て面接に。浅草にあった都内屈指のキャバレーだった。
一階はキャバレー、二階は料亭で。三味線も踊りもできる桂子さんは、両方を掛け持ちしてここでも実力を発揮する。
※9女給=今でいうところのホステスさん。
桂子
お店の女給頭※10でマネージャーさんがね、「桂子」と名付けてくださった。桂子って、こういう世界でナンバーワンになる名前なんですってよ。
以来、70年、桂子を名乗り続けているんです。
※10女給頭=女給さんたちを束ねる役割を持つ人のこと。
昭和24年(1949)ごろになると、浅草の劇場や寄席が復活しはじめる。桂子さんも、“芸の虫”が疼き出し、舞台に戻りたいと考えるように。
タイミングよく、またもや“お助け漫才”の声がかかり、お座敷(キャバレー)と舞台の二足のわらじを。
けれども、漫才に専念するべく、キャバレーを辞めた途端、そのコンビが解消する……という憂き目にあってしまう。染芳さんとはすでに別れていた。
桂子
「新しい相棒に」って、好江さんを紹介されたんです。好江さんはあたしが舞台にかかわった年齢と同じ14歳。こんな子どもと組んで、あたしは家族を養うのか……とちょっと頼りなくて一度は断りました。
けれども、考え直して一緒にやると決めたんです。
昭和25年(1950)、朝鮮戦争が勃発した年に「内海桂子・好江」は本格的にスタート。
好江さんが亡くなるまでの48年間、二人三脚、芸の道をひた走ったのであった。
三味線も弾けず、踊りもできなかった好江さんを、鬼のようなシゴキで仕込んだのは桂子さんだ。
それに応えるべく、好江さんも血の滲むような努力をした。
桂子さんのしゃべりに好江さんが突っ込み、三味線、踊り、唄を盛り込んだ漫才は江戸っ子らしい気っ風で評判となった。
そして、昭和31年(1956)、「第一回NHK漫才コンクール」(現・NHK新人演芸大賞)に挑戦すると……
桂子
芸歴20年近くのあたしが出ることない、と言われたけれども、好江さんを“一人前だと認めてもらう”いうケジメでもあってね。
でも、優勝叶わず、第二回も第三回もできなくって。
頭に来て、好江さんに「お前さんが下手だから落ちたんだ!」って言ったら、好江さん、睡眠薬自殺を図っちゃった。ひと晩看病したら生き返ってくれたけどね。
優勝できなかった理由は、「当時は男性社会で、男性の漫才組織の一門に属していた芸人ではなかった」からと、夫でありマネージャーの成田さんが教えてくれた。
そうか、そういう縁故というかコネも必要な世界であるのか……
桂子
第四回のコンクールで優勝できたときは、本当にうれしかった。
昭和でいちばんうれしかったことかもしれないし、好江さんもずっとその感激を忘れないでいてくれました。
その後、芸術祭奨励賞、文化庁芸術選文部大臣賞を漫才師としてはじめて受賞したけれど、コンビを組んで48年、好江さんは死んじゃった。
平成9年(1997)10月6日、胃がんのために死去。61歳だった。
「ねえさんの死に水はあたしが取る」と言っていた好江さんが先立たって早21年。
桂子さんは、今日も舞台に立ち続けている。
<内海桂子さんのお話は後編に続きます>
少女時代から、誰かの手助けをし続けてきた桂子さん。
さまざまな経験を乗り越えたならではの、心をゆさぶる言葉がそこかしこに。
そんな粋でおちゃめな桂子さんの、後編記事はこちら
→「100歳まであと4年。わけはないよ(笑)」内海桂子さんインタビュー(後編)