55年住んだ東京から築160年の古民家へ “暮らし”を楽しむ人生とは 随筆家・山本ふみこインタビュー

場所は熊谷。立派な門構えに少々たじろいでしまったが、門をくぐるとそこには青々とした庭が広がっている。大きな日本家屋のなかに入ると、風通りの良さを感じる。縁側から入った外の空気が、広々とした和室を抜け土間まで流れてくる。

この築160年の家に住んでいるのは、随筆家・山本ふみこさん。「いろんな歴史があるんですが、ちゃんと建っていて偉いですよね」と、山本さんはまるで友達の話をしているかのようにコロコロ笑った。
そんな山本さんの笑顔を見て、この風通しの良さと心地よさは、この家だけが連れてきたものではないことに気づく。
- 山本ふみこ
随筆家。1958年北海道小樽市生まれ。
「ふみ虫舎エッセイ講座」主宰。
東京で半世紀暮らし。2021年5月、埼玉県熊谷市に移住。
著者に『あさってより先は、見ない』(清流出版)、
近著『むべなるかな』(ふみ虫舎/ご注文は、BASEふみ虫市場へ)ほか多数。
山本ふみこ公式ブログ「ふみ虫、泣き虫、本の虫。」(毎週火曜日更新)
「うんたったラジオ」(ポッドキャスト)も好評配信中。
口にすると、天使が連れていってくれる

山本さんは現在、“随筆家”というお仕事をされているかと思いますが、いつから書くことに興味を持っていたのでしょうか。
山本
小学校5年生のときに、書くことと読むことを将来仕事にすると決めました。
そんなに早くから?
山本
それ以外のことが、まったくできない子だったので(笑)。いまもそうなんですけど、できないことがいっぱいある子どもでした。でも書くことと読むことは好きだったし、それだったらなんとかなるかもしれないと思って。

山本
その昔、母の親友が教えてくれたんです。「そういう仕事をするって決めちゃったほうがいいですよ。宣言したほうがいい」って。それは自分に言い聞かせることでもあるし、周りに伝えることでもあるんです。そしたら「見えない力に引っ張ってもらえるから。文子ちゃんのまわりをパタパタ飛んでる天使が、引っ張ってくれますからね」って。

その後は、出版社に勤めたと伺いました。
山本
出版社には11年勤めました。月刊誌の編集部は、とても忙しかったです。昔はいまと違って、ハイヤーで家に帰ったりしていたので、うちの母は心配しましたね(笑)。「近所の人は、あなたのこと水商売の人だと思ってるわよ」って。でもそれを聞いて、私は「いいじゃんそれ、すごい嬉しい」とか言って。そんな時代でした。

山本
そうして働いているうちに、だんだんひとりでやりたくなったんです。同じ場所に毎日通ったり、お昼どうする? なんて話したりするのが、ちょっと苦手なんです。……わかりますか?(笑)
わかります(笑)。これも人によって向き不向きがありますよね。
山本
やっぱり、体質でしょうか。それで、31歳のときに独立したんです。しかも独立と離婚が一緒だったの。そのときは、私のもとに幼子が2人いたんですよ。
安定は人生の目標じゃない

独立と離婚を同時にしたんですか?
山本
そう。エネルギーがあふれているときに、一遍にやってしまおうって思ったのかもしれませんね。そうして小舟に乗って海に漕ぎ出たんだけど、そこには女の子2人が乗っていて。先のことを心配したり、これからどうなってしまうんだろうかっていうことを私は考えられないたちなのですよ。先のことを心配するっていう能力がないっていうか。そしてね、面白かったの、すごく。そういう決心ができたことも面白かったし。なんとかなるだろうって思っていましたね、いつも。

ここでの生活もそう。東京から引っ越すときも、みんなに心配されました。親身になってくれてありがたかったけど、私としては死ぬまでここにいる、という感じではなくて。
安定した場所が嫌いなわけじゃないけど、それが目標ではないというか。冒険してもいいんじゃないかなと思ってやってきました。やりたい気持ちを抑えてまで、安定してることはないっていうくらいの感じなんです。やるとなったらやっちゃって、気がついたなら気がついたなりに生きないとね。

なるほど。でも、会社勤めでなくなるということは、安定した収入はなくなりますよね……?
山本
そうそう。そういうことを考えとけばよかったかなって、あとから思いましたけどね。毛虫のように貧乏でした。“木に住む毛虫のようだ私は……。”って、自分の本に書きま
したね、当時。それからは、大きく羽ばたいたっていうわけじゃないけれど、低空飛行でなんとかなってきたので。“なんとかなる”っていう感じが、とっても面白かったのね。

独立後、お仕事はどのように続けていったのでしょうか。
山本
それこそ、出版社時代はあなたのようにインタビューもしていたんですけど、私は人に話を聞くのがとても苦手だってことを、あの時代に知ったんですよ(笑)。
そうなんですか?
山本
あのね、ちょっと聞いたら「こういうことですね、はいはいあーわかりました。じゃあどうも失礼しますっ」って感じで相手を押し倒しちゃうというか(笑)。「あぁ、私は自分の感じで書いたほうがいいな」と、しみじみ思ったんです。
“自分の感じ”、ですか。
山本
ある日居酒屋で日本酒を飲んでいたら、たまたまとなりに評論家で、編集者の津野海太郎さんがいらしてね。そのときに、出版社を辞めてシングルマザーで暮らしていること、毎月の食費について話してたら、「面白いからそれ書きなさい」と。それで書いたのが、デビュー作(エッセイ)『元気がでる美味しいごはん』(晶文社 1994年)なんです。

可愛い本でしょ。フジモトマサルさんが絵を描いてくださいました。
絵が豊富で可愛いですね。自分のことを書くって、どんな感じですか?
山本
自分のことを客観的に眺めて書いています。“山本さん”っていう人のことを、はなれて見てる感じです。自分だけで押し切っちゃうのじゃなくて、自分と話し合いながら書いたり、距離感を持つのも大事かもしれません。

自分と話し合いながら書く、というのは面白いですね。
山本
書くときだけじゃなくて、読むことも私は話し合いだと思っています。読書っていうのは、書き手との対話。書いてあることをすべて飲み込もうとしないで、「でもさ〜」って心のなかで口答えしたり(笑)。そうすると自分のなかで、新たな視点が生まれるから。
「読書量が減っています」と言われて久しいけれど、私は読むことと書くことはつながっていると考えています。“読まないのは、書かないから”だ、と。
なるほど。
山本
なんでもいいの。いきなりエッセイや小説を書けっていうわけじゃなくて、日記でもつぶやきでも、ハガキ1枚書くのでもいい。書くと、読み方も全然変わってきて、書き手と会話ができるようになるんです。書かないのに読もうとするのは、食べたこともないものをいきなり作ろうとするようなものじゃないでしょうか。
結婚って、何?

先ほど独立と離婚を同時にされたとお伺いしましたが、その後は……。
山本
いまのパートナーとは結婚というかたちはとっていません。でも、どうやら30年以上も一緒にいるらしいの(笑)。周りには結婚をしない選択をする友人もいるし、いろいろな選択を理解したいと思うようになりました。うっかりしちゃってたのか、一緒に生きていくなら結婚かなと思い込んでいたんですけど……時代の雰囲気もあったと思います。
山本さんが、いまの旦那さまと一緒に生きていくことにした決め手はなんですか?

山本
うーん……。意外と、“ごはん”が大きいかもしれません。一緒にごはんを食べたかったんです。あと私は暮らしや家が好きなので、それをともに味わってゆくというか、一緒に面白がってゆくところですかね。私にとっての“暮らしの相棒”というか。一応結婚みたいなスタイルで暮らしてはいるけれども、籍を入れなかったのは、私もいろいろこんがらがった人生を送ってきたなかで掴み取ったことなんだろうなと思います。
娘が3人いるんですけど、「結婚しないの?」とか「どう考えているの?」とかそういうことは聞きません。彼女たちは、彼女たちです。「するならするべき相手としなさいね」って感じです(笑)。
築160年。日本家屋の生活

改めて、本日はご自宅にお伺いさせていただいたのですが、すごく立派な日本家屋ですね。東京から引っ越してきて、ここでの生活はどうでしょうか?

山本
きっと、たくさんの人がここに住んでいたんだと思うんです。私の気持ちとしては、“管理人”の気持ちなんです。「ちゃんと管理するね」って毎朝思いながら、お線香をあげています。「楽しんで住まわせてもらいます」って思いながら過ごしています。

山本
この赤い壁ですか? 私が大工さんにお願いしたんです。リフォームの工事中に「本当に日本家屋だな〜」って思いながら眺めてたら、ちょっと遊びたくなって。もう“和”の力は抗えないほどあったので、少しだけ遊ばせてもらいました。
そうなんですね。どことなく和洋折衷の雰囲気があるからこそ、落ち着くのかもしれません。ちなみに、熊谷での生活はどうですか?
山本
仕事をしながら、農作業もしているんです。主に農作業をしているのは夫なんですが、私も手伝っています。なんだか、ここに越してきてから忙しくなりましたね。

農業もやられているんですね。
山本
庭とブルーベリーは私の担当で、大きく農業(米と麦の二毛作)のリーダーは夫です。

山本
戦前から1970年ごろまで養蚕もしていました。
このお家で、エッセイ講座を開くこともあるそうですね。講座はいつから?
山本
12年前です。50歳のとき、憧れの翻訳家の「英文翻訳塾」に通っていたんです。そしたら係の人に、エッセイの講座をやってみないかと声をかけられて。それで始めてみたら、面白くなっちゃって(笑)。

講座にはどんな人がいらっしゃるんですか?
山本
書いてみたい、言葉と出会いたい、と思っている人たちかな。回を重ねるごとに、その人のものの見方と捉え方が変わっていくのがわかります。
最初はね、夫の悪口とか、相続がうまくいかないとか、そんなことばかり読まされましたね(笑)。胸の奥底には、書かれるのを待っているものがあるんです。表面に溜まったそれらを吐き出すと、メキメキ書けるようになるんですよ。そんな人たちの作品を、第1読者として読む贅沢さと言ったら!

山本
昨年の10月に「うんたった」という会社を作ったんです。講座のお仲間の作品を本にしたり、そのほか縁(えにし)ある人たち、ものたちとつくる活動をしたくて。私は今生で作家的なことにはならなかったかもしれないけど、ちゃんと書き手として「やったぜ」っていう気持ちになりたいなと思ったんです。
本職である随筆家から、エッセイの講座、また新たにやりたいこと……と、何かつながりを感じますね
山本
やっぱりまわりには天使がパタパタ飛んでいて、私を導いてきてくれたのじゃないかな。

あと、たまに人に「あなたこれ、してみませんか」と、目の前に思いもかけない仕事や役割が置かれることってありませんか? そういうときはやった方がいいなって私は思うんです。たとえそのときは「え?」って思ったとしても。
意外と新しい自分が発見できることもあるんです。東京時代、武蔵野市の教育委員を拝命しました。「置かれたからやらなきゃ」と思って務めたのです。そしたらそれはそれは学びいっぱいの日々が待っていました。いまでもその当時の校長先生と親しくおつきあいしています。みんなで飲んだり(笑)。
それはすごいつながりですね。

山本
そして校長先生たちと話していたらね、自分のなかに、子どもたちという未来の視点が足りなかったことに気づきました。これは教育委員を務めなかったらわからなかったこと。世の中にはすぐ年齢を気にしちゃう感じがあるでしょ。「この歳になったらこんな服は着ない」とか、「こんな活動は控えよう」とか。どこかでブレーキをかけちゃって。
私の友だちにも、母が認知症になったから私もなるんじゃないかって、心配したり、子どもが結婚するしないで、悩んだりする人がいっぱい。でも、そうなってから考えたらよくない? って思うの。そういう“予告編的な心配をする”人が、多いような、ね。
そして私はそんな友達に「きっと備えたこととは異なる困りごとが降ってくるよー」って言うんです。イヂワルでしょ。

山本
いま私は戸籍上66歳らしいんだけど、46歳って気持ちで生きているんです。
なぜ46歳なんですか?
山本
児童文学作家の山花郁子さんとお話していたとき、92歳になったと言われたのです。(私の)ちょっぴり年上でおられるのかなと思っていたから驚きました。ある日山花さんが、猫がひっくり返ってお腹を見せてるのを見て、自分もひっくり返ろうと思ったのですって。92歳をひっくり返して、29歳。「私いまから29歳ってことだから、よろしくね」って、真顔で言ったの。そのとき私は64歳だったから、「じゃあ私も」と思って46歳にひっくり返したの。
なるほど(笑)。
山本
そしたらね、なんだかいい感じなの。若く見えるなんて話じゃないのです。年齢と相談して控えめに暮らすなんてまっぴらです。あなたも、やりたいことやった方がいいよ。大丈夫。私も、あなたがどこに行ってどんなふうに生きていくのか見てますね。楽しみに見てますね。

「年齢をひっくり返す」なんて、初めて聞いた。私は2025年現在で32歳。ひっくり返したら23歳。23歳の私は、たしかに先のことなんて考えていない“無敵状態”だった気がする。考えていない、というのは、やりたいことがないというわけではなく、先々を不安に思ったり、お金、時間、年齢、いろんな何かにとらわれていなかったということだ。
山本さんは、その見えない何かにとらわれないことの大切さと面白さを、改めて教えてくれたような気がした。もしかしたら、自分の人生ってまだまだ面白いものになるのかもしれない。
無意識に自分を縛っていたものを一度外して、やりたいことを声に出してみよう。そしたらきっと、天使が思わぬところで出会いを引き寄せてくれるかもしれない。
山本ふみこさんインフォメーション
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